チョコレート革命
これはまずい。
克哉が気づいたのは、税関を抜けたときだった。
御堂の代理として急遽出張が決まったのは、一週間前。
昼前にマンションに帰って慌てて荷造りして、夕方の便でトラブルの発生した海外工場へ向かってからは、息つく暇もない緊張と忙しさだったので、すっかり忘れてしまっていた。
それまでは、漠然とだが考えてはいたのに。
男同士でもこういうことはやるものなのか、とも思ったので、御堂の友人の恋人にこっそり連絡を取って聞いてもみた。
答えは「やりたきゃやれば」だった。
やりたければ…
胸に手をあてて考えてみて、どうやら自分はしたいらしい、と思い到り、だから克哉はするつもりだったのだ。
バレンタインにプレゼントを。
そしてそこではたと固まった。
一体何を贈ればいいのだろう。
貰うことには、不本意ながら慣れている。
スーツにワイシャツにネクタイに時計に靴に鞄に。
勝手に買ってきて、遠慮すると不機嫌になるので受け取ることになり、もはやプレゼントは御堂の趣味だと思うしか、自分を納得させられないほど貰っている。
そんな相手に、こちらから、なにを贈るか。
しかも既に、誕生日とクリスマスは経験した。
さすがにこのふたつは、贈る立場だ。クリスマスは貰いもしたが、それはともかく。
誕生日には、カフスボタンを贈った。
御堂が馴染みにしている店で、御堂の好みをよく知る店員と相談に相談を重ね、克哉の真剣さを超えた必死さに心動かされた店員が、 オーナーと相談してわざわざパリの本店から取り寄せてくれた品だった。
クリスマスにはワインを贈った。
御堂が手に入れ損い、惜しがっていた銘柄を知っていたので、よく行くワインの店の店主に頼んでみたら、手を尽くしてくれて運良く手に入った。
どちらも御堂は喜んでくれて、克哉も嬉しかった。
だが、こうして御堂の好むものふたつは、既に贈ってしまっていた。
次は何を贈ればいい?
王道のチョコレートは、甘いものを普段食べない相手にどうなんだろう、という気持ちがあり、チョコレートを贈るにしてもメインには なにか別のものを、どうせ贈るならそれなりのものを、と考えているうちに、当の御堂から出張命令が出た。
あわや新商品発売中止、な事体だったので、すべての意識は仕事に集中した。当然だ。
おかげで問題は解決したのだが、帰って来たら14日の夜。
いっそ、二三日過ぎててくれれば、素知らぬ顔も出来るが、いかんせん当日だ。
今の今まで忘れていたのだから、案はない。もう今から、なにか選ぶなんて出来ない。
こんなことならチョコレートだけでも、買っておけばよかった、と思ってももう遅い。
空港にも売ってはいるが、間に合わせなものを御堂に渡すのは気が引ける。
タクシーに乗り、会社に向かいながら、克哉は何度か未練がましく腕時計を見た。
途中でどこかに寄って、なにか買えないか。
だが会社では克哉の持ち帰る資料と報告を待って、一室のメンバーがまだ残っていて、 徒に帰社を遅らせるわけにはいかない。
諦めよう。
ようやくそう決心すると、どっと疲れを感じて、克哉はシートにからだを倒した。
「御堂さん、すみません」
MGNの駐車場。
トランクに荷物を入れたあとも、助手席側に行かない克哉を御堂が振り返った。
「なんだ。君のおかげで万事うまくいった。謝る必要がどこにある」
「でも、あの、オレ、御堂さんに謝りたいんです」
克哉が顔を上げると、御堂は靴音を響かせて、克哉に近づいた。
乱暴に腕を掴まれる。
「出張中に、誰かと寝たのか」
「は?」
「言え。寝たのか」
冗談ではない気配を感じて、克哉は内心、またか、と思った。
「…そんなことあるわけないじゃないですか」
「支社からは、君が現場の人間とすぐ馴染んだと連絡があったぞ」
「仕事です。現場トラブルだったんですから、話をするのは当たり前でしょう?」
つい声を張り上げてしまいそうになるのを、克哉は抑えた。
ムキになると、余計に御堂を刺激する。
疑われたときは、それはありえない、と御堂が理性で気づくまで、出来るだけ冷静でいなくてはならない。
なんでこんなに疑われるのだろう、と思うほどこの一年疑われること多々だったので、この問題で御堂を宥める術は、会得済みだ。
しばらく睨まれたが、やがて腕に食い込む御堂の指から、少しだけ力が抜けた。
「では、なにを謝りたいんだ」
「今日、なにも用意出来なくて、そのことを」
「今日?」
「2月14日…」
バレンタインデーというのが気恥ずかしい。
御堂は虚を突かれたようだった。
「ああ、それか」
気のない様子で呟いてから、克哉を軽く突き飛ばす。
「乗りたまえ」
それか、はないだろう、と克哉は思った。
それか、の一言で片付く問題なのか、御堂にとっては。
自分は確かになにも用意出来なかった。出来なかったがしようとはした。
その気持ちを伝えたかったのに、御堂にとって今日は、克哉からなにか貰うことを、期待する日ではなかったのか。
タクシーのなかで感じたのよりさらに酷い虚脱感に、克哉はふらふらと助手席に乗り込んだ。
この一週間の激しい緊張から解放されたせいもあって、目に涙が滲んでくる。
街灯と信号の明かりでははっきり見えないだろうが、零れてはみっともないので、右手の甲をあてて目元を押さえた。
そんな克哉を完全に無視していた御堂は、 赤信号でブレーキをかけると、ダッシュボードからなにかを取り出した。
「ほら」
膝の上に乗せられて、克哉は手を少しずらせて左側を見るが、 信号が変わり車は動き出し、すれ違う車のライトに照らされて、御堂の横顔の輪郭しかわからない。
克哉は膝の上のものを手に取った。
小さな手提げ袋のなかに、箱がふたつ入っている。
「御堂さん、これ」
「開けてみろ。ああ、そっちじゃない。下にあるほうだ」
ふたつのうち、高さのないほうの箱を手に取る。
真紅のリボンをほどき、銀色の包装紙をはがして、黒い箱の蓋を開けると、横一列に綺麗な形のチョコレートが並んでいた。
驚いた克哉は、もう一度御堂を見たが、やはり暗くて表情はよくわからない。
「贈りたいのは、いつだって私のほうだと思っていたが?」
ハンドルを握ったまま、ぶっきらぼうに言われる。
感極まって抱きつきたくなるのを、克哉はこらえた。
代わりに想いのすべてが伝わるように、祈りながら言った。
「ありがとうございます…」
車はマンションの駐車場に滑り込み、克哉は大事そうに手提げ袋を抱えて降りた。
そこでふと気づく。
「あれ、もうひとつは」
チョコレートに感激して開けるのを忘れていたが、袋にはもうひとつラッピングされた箱が入っていた。
取り出して片手で持つと、 トランクから克哉のスーツケースをおろした御堂が、人の悪い、だが最高に綺麗な顔でにやりと笑った。
「それは週末に開けたまえ。今開けると、睡眠不足と疲労で、仕事に差し障りが出るぞ」
「へ」
それだけで、箱の中身がどういう性質のものであるか、わかってしまった。
思わず落としそうになり、慌てて抱える。
「みみみ、御堂さんっ!」
「大きな声を出すな。行くぞ」
克哉の荷物を持って歩き出す御堂のあとを、真っ赤になった克哉はついていった。