瞳の真実
克哉がバスルームから出てくると、固定電話の呼び出しが留守電に切り替わるところだった。
「…私よ。ほんとにいないの? まあいいわ」
女の声だ。
「このあいだの話の返事よ。納得したわ。それじゃ、さようなら」
がちゃん、と電話は切れて、タオルを顔にあてた克哉はしばし立ち竦んだ。
御堂はまだ買い物から戻ってきていない。
どうしよう。
これを聞いたと、御堂に知られたくない。
うろうろした挙句、克哉はバスルームに戻った。
羽織ったばかりのガウンを脱いで、鼻のぎりぎりのところまで湯に沈み、立ち上る湯気に包まれた。
御堂の部屋のバスルームは広く、バスタブも規格より大きくて快適だが、からだはもう洗っているし浸かっているしかない。
さようなら
女の声が耳に戻ってきて、克哉は湯を掌で跳ねさせた。
あの電話については、深く考えないほうがいい。
あれは終わりの電話だ。
克哉に会う前のプライベートを御堂は口にしないが、語らずともなんとなく想像は出来る。
そしてそれは克哉の眉間に皺を寄せさせた。
「はあっ」
息を吐き出しながら、壁にかけられたシャワーヘッドに目をやる。
ここで、告白した。
だめもと、というよりやけくそで。
しかも今だから思うが、少しだけ期待して。
それでも、御堂のいないときにここで物思いに耽る日が来るなんて、思っていなかった。
「御堂さん」
いない人の名前を呼ぶ。
それだけでどきどきした。
「あなたが好きです…あのときよりもっと…」
聞く人のいない告白がバスルームに響く。
「克哉?」
脱衣所のドアが開いた。
「は、はいっ! ここです!」
帰ってきた。
焦って無駄に湯を叩いてしまう。
「いや、いるならいい。ゆっくり入っていろ」
「いえっ! もう出ますっ!」
聞かれてはいないようだ、と安心したようながっかりしたような気持ちになりながら、克哉はドアが閉まる音に追いすがるように勢いよく立ち上がった。
「あれ…?」
足に力が入らない、と思ったのと同時に目がまわった。
「あれれ…?」
そして暗転。
「まったく、君は。
ちょっと目を離すとなにをしでかすかわからないな」
ガウンを着せられた克哉は、開け放した窓から入る風に顔を向けた。
湯あたりしたのを御堂にバスルームから引っ張り出してもらい、ソファに寝転がっている。
「すみません…」
水の入ったグラスを手渡され、氷がからんと音を立てるそれを一口飲んだ。
そのままグラスを頬にあてる。
「…気持ちいい」
火照ったからだに冷たさが心地よかったのだが、いきなり取り上げられた。
「御堂さん?」
思わず追った手を掴まれて、少し引っ張られたかと思うと御堂が覆い被ってきた。
重なった唇をさらに舌で開けられ、受け入れる体制になった途端冷たいものが入ってくる。
「ひっ…なに…っ!?」
かつんと歯にあたり、舌で溶ける感触に、それが氷だと理解した。
御堂は克哉の頭を押さえつけ、零れないようにより密着する。
触れ合う箇所の熱さと氷の冷たさの不均衡に、克哉のなかのなにかが狂う。
御堂とのキスはいつもたまらなく甘い。
「御堂さん、好き…」
氷はすぐに消えてなくなり、唇が僅かに離れた隙に掠れた声で囁くと、御堂は指で克哉の頬を撫でた。
「もう気分は悪くないか?」
克哉が頷くと、上半身を少し起こされた。
「嫌ならそう言え」
「え?」
グラスから取り出された別の氷が、ガウンの襟元に滑り込んできた。
「…ひゃっ!」
平らな胸を素通りし、一番熱い部分に落ちる。
前にもこんなことがあった。というか、された。
意図を問うように目を上げると、視線が絡まったまま腰を引き寄せられた。
「あ…っ」
氷が動いてぞくりとする。
「嫌、か?」
ぼうっとなりかけた頭で、克哉は少し考えねばならなかった。
戯れは嫌いではない。
そんなことは御堂も知っているから、過去の感情が呼び起こされて不快ではないかと聞いているのだろう。
嘲りの言葉。自尊心を損なわれて悔しい気持ち。なのに反応するからだへの困惑。
克哉は御堂を見つめたまま、それらを思い出してみた。
「…あなたのすることで、オレが嫌だと思うことなんかないです」
克哉が唇を寄せると、御堂は満足気に笑った。
気持ちが行き違うのは相手の目を見ていないときだと、最初の失敗から克哉は学んだ。
どんなふうに扱われてもかまわない。
御堂の目に自分を求める切実さがあるなら。
「好きです…」
返事はない。
代わりに噛み付くように首筋にキスされた。
「克哉」
うとうとしかけた克哉の頬を、御堂が軽くはたいた。
「シャワーを浴びるか?」
「…もうお風呂はいいです。 …眠い」
「ならベッドで寝ろ」
ソファから落ちかけていた足をちゃんと下ろされ、ガウンに袖を通させてくれる。
こういうことに御堂は細やかだ。
「御堂さんは…?」
目をこすりながら言うと、シャツをはだけさせた御堂はにやりと笑った。
「まだ足りないのか?」
なんと答えるべきか、克哉は困る。
今はただ眠くて、ひとりで寝るのが寂しいだけなのだが、一緒にベッドに入ったらまた欲しくなりそうだ。
口篭る克哉の反応に気をよくしたのか、唇に触れるだけのキスが落ちてくる。
「ここを片付けたら行く」
ちらとソファの状態を見た克哉は、赤くなって頷いた。
通り過ぎるとき電話を確かめると、留守番電話のボタンの点滅はもう消えていた。