……の恋人
ウェイターに案内された席で待っていたのは、 擦れ違ったら思わず振り返ってしまいそうな、派手な顔立ちの男性だった。
「遅れてすみません」
「五分なんか遅れたうちに入らないよ」
座ったら、と言われて席に着く。
「コースは適当に選んどいた。
ワインも勝手に選んだけど、よかった?」
「あ、はい。オレ、詳しくないのでなんでも」
「指南してくれる人がいるくせに」
水の入ったグラスに口をつけながら、克哉は一回大きく跳ねた心臓の音が、 相手に聞こえなかったか様子を伺った。
目の前の相手とは初対面だ。
突然携帯に電話がかかってきて、会いたいと告げられた。
いくら克哉がおっとりしていても、知らない人と会おうとは思わないが、彼は「……の恋人」だと名乗った。
……は先日ワインバーで会った、御堂の友人の官僚だ。
「あの、今日はどうしてオレに」
「わからないの?」
テーブルに両肘をつき、絡められた男の左手の人差し指と薬指には、装飾的な指輪が嵌められている。
御堂はもっと派手なのが好きだよな。
ふと、初めて御堂にワインバーに連れて行ってもらったときの、友人達の会話を思い出した。
あの時はなんのことかと思ったが、付き合うようになってから、過去に連れていた相手がそうだったのだ、と理解した。
女の場合はともかく、男で派手、というのがどういうものかと思っていたのだが、この男はまさにそいう感じだ。
でも、この人は……の恋人と名乗った。
静かな睨み合いのようになり、埒が明かないので克哉は質問を変えた。
「あの、オレの電話番号はどうして」
「……の携帯のアドレスに入ってたよ」
え、と克哉は驚いた。
「オレ、教えてないですけど」
今度は向こうが驚いた。
「教えてない?」
「はい。聞かれてませんし…御堂さんが教えたのかな。でも、そんな必要」
ないだろうし、そもそも必要があっても教えるとは思えない。
誘われても、絶対会うなと言われているのだから。
「御堂さん?」
男は組んでいた指をずらし、口元にあてた。
虚を突かれた表情だ。
「君、た…御堂さんを知ってるんだ?」
「え?」
話が噛み合っていないことに、ようやく克哉は気がついた。
この人は、自分と御堂が付き合っていることを知らずに、電話してきたのだろうか。
指輪が嵌められた指が克哉に向けられた。
「君、もしかして孝典さんの遂に現れた本命か!」
「は…?」
普通の会話にしては大きな声に、ほかのテーブルの客の視線が集まり、克哉は思わず俯いた。
対する相手は先ほどまでの険のある微笑みではなく、晴れ晴れとした表情になっていた。
「ああ、そうか。た…御堂さんのね! ああ、わかった!」
ワインが運ばれてきて、しばし会話が中断される。
「あー、ごめんね、佐伯君。君のことは聞いてるよ。名前までは知らなかったけど。ああ、克哉君でいい?」
え、それはちょっと、と克哉が言う間もなく、男はひとり納得して、 ソムリエが去ってから、ワイングラスを持ち上げ、少し肩を竦めた。
そんな姿が様になる。
「どうしてオレに電話してらしたんですか?」
ようやく訊けた。
ああ、と男はワインを一口飲んだ。
それから鮮やかに笑う。
「君のこと、……の浮気相手だと思ったんだ」
ワインを噴き出さなかった自分を、克哉はえらいと思った。
彼は御堂やその友人の大学の後輩だった。
恋人の浮気相手疑惑が解けると、快活に話しかけてきたが、 最初に地を見てしまうと、些か引くところのある変わりようだ。
お詫びに、としてくれた御堂の大学時代の話を聞けたのは嬉しかったが、 名前を呼ぶとき「御堂さん」と「孝典さん」が入り混じっていることに、克哉は気づいた。
友人の本命は建前では手出ししないが、それ以外ならなんでもあり。
御堂さんは派手なタイプが好き。
断片的な情報がヘンにつながって、胸の底に複雑な思いが湧き上がる。
自分の知らない御堂のことを知りたいが、なにもかもすべてを知りたいわけでもない。
微妙な反応を示す克哉の様子に、 ワイングラスの縁を指で拭って、その指をさらに膝に乗せたナプキンで拭うと、男は人の悪そうな笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、克哉くん」
「え?」
「”御堂さん”とはキスしかしてないから」
「は…?」
意味を理解するより早く、 なにをしようと思ったのかわからないまま克哉は手を動かし、勢いよくワイングラスにあたった。
「あ…、すみませんっ!」
ウェイターがすぐさま駆け寄ってきて、テーブルクロスに広がった赤い染みを拭き取ってくれる。
絨毯が敷かれていたのでグラスは割れなかった。
「お召し物は大丈夫でしたか?」
「あ、はい。すみません」
克哉がおろおろしているあいだに、ウェイターは、すぐに新しいグラスを持ってきます、と下がった。
その間中、男はずっと楽しげだった。
「そんなに驚かなくても。随分前の話だし、向こうはきっと忘れてるよ」
「は、はあ」
反応を見越して、というか期待して言ったことくらい、克哉にもわかる。
御堂さんの友人って…
ワインバーで思ったのと同じことをまた思うと、まるで見透かすように問われた。
「あの人たち、君の目にはどう映った?」
「あの人たちって」
「君の恋人とそのお友達」
克哉の前に新しいグラスが置かれ、ワインが注がれた。
デザートとコーヒーも運ばれてくる。
彼らはね、と男はアイスクリームスプーンの先を軽く克哉に向けた。
「出来ることが人よりひとつでも多いのが素晴らしいと思ってるんだ。
なんでも持ってるし出来るから、そうじゃないと退屈するんだろうね、人生に」
「出来ること…」
「女だけじゃなくて男も抱ける、とかさ」
克哉は今度こそワインにむせた。
器官に入って、息が詰まる。
「大丈夫? 君、面白いなあ。そう言われない?」
克哉は涙目で男を睨んだ。
「言われません。他人事みたいにおっしゃいますけど、あなたも皆さんと同じなんですよね?」
克哉が切り込むと、男は意外そうに目を開いてから、すぐ食えない顔に戻った。
「ぼくは先輩方ほど、恵まれてはいないよ。
それから男が好きなのは嗜好じゃなくて、そういうふうに生まれついてるだけ」
つまらなさそうに、溶けかけたアイスクリームを口に運ぶ。
「克哉君はこれまで男と付き合ったことあるの?」
「いえ…」
「ふうん。すごいなあ。こんなにおいしそうな匂いをさせてて」
目の前の相手の視線が、艶かしいものに変化する。
「今までよく、誰にも食べられなかったよね」
前髪に触れようとするかのように右手が伸びてきて、克哉は反射的にからだを仰け反らせた。
「え?」
いきなりうしろから頭を強く押さえられ、そのまま顔を横向きにされる。
なにかに押し付けられた、それはスーツの生地だった。
上質なその肌触りには覚えがある。
「御堂さん…!」
すぐに手が離れたので、周囲にはふざけた程度に見えただろう。
離した手で肩を掴まれた克哉には、御堂が怒っていることが伝わっていたとしても、見ているだけではわからない。
「あれ、孝典さん」
わざと名前を呼んだと克哉は確信し、御堂を見上げると、眉間に皺を寄せていた。
「どうしてここがわかったの?」
コーヒーを飲み干した男は怯む様子もなく、御堂と目を合わせた。
御堂さん、痛いです…っ!
「ここに来る前に、オレがメールしてあったんです」
指の跡が残るほどに手に力を入れられて、克哉が答えた。
本当は行っていいのかどうか確認したかったのだが、今日御堂は一日取引先に出向いていて、 克哉が退社前に携帯にメールしたときもまだ打ち合わせ中だったので、ホテルとレストランの名前だけ知らせておいた。
「どうして君が克哉に電話してくるんだ」
押し殺したような御堂の声に、自分に向けられているわけでもないのに克哉の身が竦むが、 当の相手はけろりとしていた。
「……の携帯のアドレス帳に新規登録されてあったので、てっきり新しいお相手だと」
「…なっ!」
鬼の形相で睨まれて、克哉は慌てて首を横に振った。
「知りません! オレ、教えてませんから!」
「勝手に見たんだと思うよ。克哉君か御堂さんの携帯を」
得意でしょ、先輩方皆さんもそういうの。
意味深に微笑まれて、御堂は一瞬言葉に詰まったが、 克哉が無言で見上げているのに気づくと、咳払いした。
「出ましょうか。食事も終わったし、これ以上注目を集めるのもなんですし」
言われて見渡すと、背の高い見た目のいい男三人が何事かお取り込み中で、思い切り目立っていた。
ぼくが誘ったから、と男が出そうとするのを遮って、支払いは御堂がした。
ホテルの前で別れ際、メモした手帳のページが破られ、克哉に差し出された。
「これ、ぼくの番号とアドレス。相談があったらいつでもどうぞ」
苦々しげだったが御堂が黙っているので、克哉は受け取った。
「ご馳走様でした、先輩」
御堂さん、孝典さん、先輩。
随分いろんな関係があるらしい。
御堂もこの男には、友人に対するほど強気には出ない。
「君はいつも……の携帯のアドレス帳をチェックしているのか」
「今日は勘違いだったけど、3回に2回は当たりなんですよ」
もう自分はこの場から逃げ出してもいいだろうか。
克哉がそう思うのと同時に、御堂に腕を掴まれた。
逃げることは許さない、というふうに。
先にタクシーに乗り込んだ男は、ドアが閉まる前ににっこり笑ってこう言った。
「末永くお幸せに」