ふたりの関係
タクシーを降りると、ワインバーの前だった。
「どうした、行くぞ」
御堂からまったく説明を受けていない克哉は戸惑った。
御堂についてワインバーには何度か行っているが、この店には知り合ったばかりの頃連れてきてもらって以来だ。
なかに入ると、店の奥、前と同じ位置に、前と同じ顔ぶれが集まっていた。
「佐伯君! 来てくれたんだね! 嬉しいよ!」
両手を広げて歓迎されて、克哉は思わず後ずさった。
頭のなかの名刺入れをめくり、男の名前を思い出す。
医者、だったはずだ、確か。
テーブル席についている、ほかの二人も小さく手を振ってくる。御堂に、というより克哉に。
ぎこちなく会釈した克哉の腕が、御堂の腕に引き寄せられた。
「え?」
際どい場所での悪戯はままあるが、はっきりと人目のある場所でこんなことは初めてだ。
目線を上げると、耳元に唇を寄せられた。
「君は誰のものだ、克哉」
「は? え? 御堂さん、です」
思わず答えると、見惚れるような傲慢さで御堂は笑った。
「それでいい」
なにがなにやらわからないまま、克哉は席に着かされる。
御堂が友人のひとりを押しのけて、無理矢理隣に座らせた。
「こんばんは、克哉君」
向かいの席に座るのは、海外ブランドの広告から抜け出てきたような優男。 どこかの省庁の官僚、のはずだ。
「ちょっとのあいだに綺麗になったねえ、見違えるよ」
その隣は弁護士だったか。
テーブルの上に置いた手を触られそうになって、慌てて引っ込める。
なんとなくわかってきた。
この場は…というか、御堂の友人というのは。
御堂が気が向きさえすれば、男でも女でも構わない人なのだとは、克哉も既に知っている。
…ひょっとして、御堂さんの友達も同じ?
思った途端、テーブルから膝に移動させた手に、御堂の指が絡んできた。
驚いて顔を上げたが、御堂は平然としている。
この位置では向こう側の席からも、ふたりが手をつないでいるのが見えているだろう。
「今日は俺が奢ろう。賭けにも勝たせてもらったことだし」
優男がソムリエを呼ぶと、舌打ちしながらジャケットの内ポケットから財布を出したのは、もうひとりのほうだ。
「あの…賭けってなんですか?」
克哉が恐る恐る尋ねた。
「克哉君が御堂の本気の相手か、俺と彼とで賭けていたんだ。
ああ、勿論俺は本気にかけてたからね」
最初に克哉を出迎えてくれた男が、身を乗り出した。
「ちょっと待て…俺はそんな話聞いてないぞ!」
「おかげで儚い夢を見られただろう」
紙幣を数枚テーブルの上に置いた男が、財布で友人の顔を払う仕草をする。
「おまえがあえなく振られるかどうかも賭けようとしたんだが、俺もこいつも振られるに賭けたんで成立しなかったんだ」
内容はとんでもないが、口調は爽やかだ。
御堂は眉ひとつ動かさず、笑ってもいないが、怒ってもいない、ようだ。
ソムリエは客の会話は聞こえないプロの顔で、注文を受けている。
以前助けてくれた人だ、と克哉が見ていると、向こうも覚えていたのか、にこりと笑いかけられた。
途端に痛いくらい強く、御堂に手を握られる。
ふうん、と優男が面白そうに口元を歪めた。
御堂のほうにからだを傾け、克哉に聞こえるのを承知の上で、わざとらしく声をひそめる。
「恐ろしく心配の種が尽きない相手を選んだな、御堂」
御堂はじろりと友人を見て、それから視線だけ動かして克哉を見た。
恥ずかしくなってきて克哉は下を向いたので、御堂が満足げに笑ったのは見えなかった。
克哉君、と呼ばれて克哉は目を上げる。
「俺たちなんでもありだけど、本命には横から手を出さないってのが不文律なので、安心していいよ」
本命じゃなければなんでもありなんだ、と思いつつ、克哉はここにいるあいだ、御堂とつないだ手に意識を集中することに決めた。
数時間後。
「大丈夫か、克哉」
「平気です」
御堂の腕に掴まりながら、克哉は歩いていた。
ワインバーでの集いはお開きになり、その後軽く食事をしたふたりは、御堂のマンションに帰る途中だ。
深夜のオフィス街にほかに人気はない。
酒には強い克哉だが、酔ったという言い訳なしでは、最後のほうでは御堂に抱きかかえられるようになっていた状態に耐えられず、あえて酔った。
「やはりタクシーを捕まえるか」
「風が気持ちいいから歩きたいです」
もともと酔おうとしていただけなので、今はすっかり素面になっている。
「御堂さん。プレゼンが成功したあとみたいな顔してますよ」
克哉が指摘すると、御堂は挑戦的な目つきで笑った。
「君を紹介してくれと言ってきたから、紹介してやったまでだ。私の恋人として、な」
赤信号で立ち止まり、克哉はどんな顔をしていいか困った。
「なんだかちょっと、お気の毒だったんですけど」
自分を紹介してほしいと言ったのは、おそらく医者の人だろう。
克哉が御堂から離れないのを見て意気消沈していたが、 さらにその後御堂からねちねちと心に直撃する攻撃を受けて、散会のときにはぺしゃんこになっていた。
友人たちが一番驚いていたのは、克哉が今MGNで働いている、という事実だった。
公私混同している、と受け取られたのか、克哉の能力がそれほどに高い、と受け取られたのかはわからないが、 御堂が克哉を必要としている、とは思っただろう。
「人のものに手を出そうとするほうが悪い」
知らなかったから、というのは免罪符にならないらしい。
「あれだけ言ってやったら、さすがに手を出してはこないと思うが、 万一誘われてもついて行くんじゃないぞ」
「…本命には手出ししないのが不文律だって」
「建前はな」
克哉は引きつった笑いを漏らした。
それぞれ容姿が優れ能力も高く、家柄もいいのであろう彼らのなかにあって、御堂は一番傲慢に振る舞っていた。
圧倒的な力は周囲にそれを許すのだ。
なんでもあり、の内容は、克哉の想像の域を超えている。
腕を離そうとした克哉を、御堂は引き戻した。
「安心したまえ。君が一番酷い目に遭っているから」
「それって、安心することなんですか?」
御堂は答えず、腕を上げて克哉の頭を抱えた。
「君にしてしまったことはともかく」
ともかくって、と思ったものの、あの件については克哉も深く追求したくない。
御堂があまり反省していないことにも気づいているが、克哉も今となっては恨んでいない。
それがふたりの関係性を現しているようで、現に現しているので、変態ぽくって居た堪れない。
いや、いいんだけど。
深く思考に浸ってひとり赤くなった克哉の頬に、御堂は掠めるキスをした。
「何を考えた」
「…幸せだなって」
御堂が少し息を吸う。
明るい場所なら、少し赤くなっているのがわかっただろう。
「人が真面目に話しているときに、何を考えているんだ、君は」
「…すみません」
「まあいい、聞け。君に出会うまでの私の行動に、些か問題があったことは認める」
「はあ」
そんな堂々と認められても、ほかに言葉がない。
「以前はそういうことが楽しかったのも事実だが、今はくだらないと思っている。 だから現在、そういう関係を整理しているところだ」
「知ってます」
「なに?」
信号が変わったので、克哉は御堂を軽く引っ張って歩き出した。
「御堂さんが、オレにわからないようにしてくれていたので、気づいてないふりをしてました」
御堂は本気で驚いている。
御堂のこういうところを、克哉は可愛いと思うし、自分に対する誠実さを感じる。
今の御堂もまだまだ克哉には把握しきれないが、自分と会うまでの御堂はもっとわからないし、 たぶんそのあたりに嫉妬し始めると、気が狂う予感がする。
熱のこもった目で克哉が見つめると、そうか、と御堂は呟いた。
「そういうことなら話は早い」
御堂は克哉を後ろから抱きしめた。
「今後は君の目を気にすることなく、迅速にことを進めよう」
「…気にはしてほしいです」
言った途端我侭を口にしたとひやりとしたが、御堂はなぜか気を良くしたようだった。
車が来る気配はないが、横断歩道のど真ん中で抱き合って、いつまでも立ち止まっていられない。
御堂は克哉の手を取って歩き出した。
「み、御堂さん」
「なにをしている。帰るぞ。
今晩付き合ってもらった礼を、早くしてほしいだろう?」
それがなにを意味するか、一拍遅れて理解した克哉は真っ赤になった。