禁断の一週間(後編)
火曜の夜は役員との懇親会、水曜の午後から支社に出張、木曜は戻ってからたまっていた決済業務を処理。
スケジュール帳に隙間があるのを嫌う御堂が、遅くまで分刻みの予定を恨めしく思ったのは初めてだ。
「明日、やっと会えるんですね…」
木曜の夜、電話を切るとき、克哉は呟いた。
日付が変わる頃かける電話の会話は、弾むどころかむしろ途切れることが多い。
なのに、切ろうとすると克哉が「あの…」とか「えと…」とか言うので、結局毎夜二時間は続く。
いっそ会ったほうが早いと思うが、会えばそれだけですむはずがない。
思い切り甘やかしてやりたい。
なのに克哉が見つめてくると、まったく反対の気持ちに支配されてしまう。
金曜の夜も、食事をしてから帰ろうと思っていたのに、顔を見たらたちまち気が変わった。
ケータリングサービスを頼む、と言ってマンションに直行したが、着いたときにはそれどころではなくなっていた。
腕を引っ張ったのは御堂だが、しがみついてきたのは克哉だ。
「玄関は…、嫌です」
「わかってる」
交わした言葉はそれだけだ。
そして土曜の午後。
「なにか食べるか?」
脱力して横たわる克哉の唇に指を這わせると、吐息を漏らすように唇が動き、舌が指を舐めた。
誰にも教えられていないのに、こういうことが出来る男なのだ。佐伯克哉は。
御堂はからだを起こし、克哉の額に音を立ててキスをした。
ベッドをおりようとする御堂の手を、克哉の両手が引き止める。
「食べるものを持ってくるから、君は寝ていろ」
「御堂さんが起きるなら、オレも…」
ベッドに突っ張った克哉の腕から、ふいに力が抜ける。
「おい!」
頭を打たないように腕を伸ばした御堂を見上げて、克哉は目をしばたたかせる。
「どうしたんだ、大丈夫か!」
「あ…えーと、たぶん大丈夫、です」
気の抜けた声に、御堂の緊張も解ける。
「たぶんってなんだ」
「おとといの夜からほとんどなにも食べてないので、たぶんそのせいだと」
へらりと笑って離れようとする克哉を、御堂は逆に拘束した。
「食べてない、だと?」
両腕を掴まれて動けなくなって、克哉はまたきょとんとしている。
「なぜだ。具合でも悪かったのか」
「い、いえ、そんなことは」
「ならなんだ。忙しくて食事を取る時間もなかったのか」
「そうじゃなくて」
口篭った克哉は目元を赤くして、視線を彷徨わせた末に正面を向いた。
掴まれている手をひねって、手首を押さえている御堂の指に触れる。
だからなぜ、無意識でそういうことをする。
「明日御堂さんに会えるんだなあ、って考えたら」
照れ臭そうに、けれど力強く言葉は続いた。
「胸がいっぱいで、なんにも食べられなくなったんです」
甘えた仕草で見上げられ、それを可愛いと思った御堂は一瞬呆けてしまった。
「ば、馬鹿か、君は…!」
思考が戻ると同時に、言葉が口をついて出る。
触れたままの克哉の指先が、やけに熱い。
「自分でも、そう思います…」
そんなところで謙虚にならなくてもいい、と思うが、克哉は本当に恥ずかしそうに横を向いてしまった。
軽く頭を振って、御堂は自分を保とうとする。
「とにかくそういうことなら、尚更なにか食べろ」
「いいです」
「まだ胸がいっぱいなのか」
「…はい」
皮肉に頬を染められても困るが、よく見ると少し痩せた。
御堂が接待などと言い出してから、目に見えて痩せたのはわかっていたが、さらに少し。
克哉の上に毛布を引っ張り上げてかぶせると、御堂は今度こそベッドをおりた。
「御堂さん?」
「私は少し出てくる」
「え、じゃあ、オレも」
「君は寝ていろ」
きつく言いつけると、克哉は戸惑い顔で頷いた。
生活感のない区画にある御堂のマンションだが、高級スーパーは徒歩圏内にある。
すぐ食べられて栄養価の高いものを手当たり次第買い物して戻ってくると、克哉は眠っていた。
胸がいっぱいで食事が出来ない上に、睡眠も取れていなかったのだろう。
買い物してきた袋を下に置き、御堂はベッドの端に腰掛けた。
自分を見ていない克哉はつまらないが、無防備な姿は所有欲を満たす。
寝顔にキスを落としているうち、ふと思いついてクローゼットから大判のハンカチを出してきた。
目元を覆って後ろで縛っていると、克哉が目を覚ました。
「え?」
目覚めたはずなのに視界が暗いことにパニックを起こしかけるのを、裸の背中を撫でて宥めてやる。
「え、御堂さん? え、なに、これ」
目隠しに触れようとする手を押さえる。
「大丈夫だ。本気で嫌ならすぐ外してやる」
「…嫌ならって」
「だから大丈夫だと言っているだろ?」
耳朶を甘噛みすると、克哉はそちらに気を取られる。
その隙に両腕を後ろに回させて、もう一枚のハンカチで縛った。
「御堂さん!」
抗議する唇にキスする。
「こういう格好が似合う君が悪い」
「な、なに言ってんですかっ」
「嫌いじゃないだろう?」
「あ…っんっ」
腰を引き寄せて上半身を抱きしめると、抵抗しなくなった。
見えないことで次の行為が予測できず、それが却って刺激となる。
角度を変えて何度もキスして、舌を絡めあう。
ようやく唇が離れると、克哉は御堂の肩に頭を乗せてきた。
「それでいい」
笑いながら御堂は買い物袋を引き寄せ、ミネラルウォーターを取り出した。
中身を一口含んで、むせないようにゆっくりと口移しで飲ませてやる。
嚥下する喉がなぜか淫らだ。
零れて口の端に筋を引いたのを親指で拭ってやってから、袋から別のパックを出す。
中身を付属のスプーンですくい取り、克哉の鼻先に持っていく。
「なんですか…」
「自分で確かめろ」
微かな温度と匂いで、食べ物だとわかったのだろう。
おずおずと口が開かれた。
「…あ、グラタン?」
「好きか?」
「美味しい、です」
「君は食べるものはなにが好きなんだ」
「え、と。魚が。生の…」
「刺身か」
「寿司とか」
咀嚼に動く唇を、御堂は見つめる。
先週は気持ちが溢れて、それどころではなかったので、ほとんど話をしなかった。
毎晩の電話も、互いの存在を感じるだけで、あとから思い返して意味のある内容ではない。
からだの関係から始まったふたりは、食事の好みさえも知らない。
「御堂さんは、なにが好きなんですか?」
「君だな」
「…食べるものの話なんですけど」
「だから君だと言っている」
すくっては口に運び、合間に水を飲ませ、を何度か繰り返す。
自由のない克哉はなにを思うのか、着衣したままの御堂にからだを摺り寄せてくる。
食べさせる体勢ではなくなるのを、顎を捉えて、グラタンがなくなると、サラダを食べさせた。
「もう、いいです」
遂に克哉は口を開けなくなった。
「まだたいして食べてないぞ」
「無理です」
克哉は目隠しされたまま、御堂の肩に顔を押し付けた。
上がった体温は、かなり前から御堂に伝わっている。
「本能という点では同じだからな」
食欲と性欲は。
耳元で囁いてやると、克哉は肩を震わせた。
先週も、食事をしていたはずが、いつの間にかセックスになっていたことがある。
キスをねだるように顔が上げられるが、無視してフォークを差し入れる。
「…御堂さん」
「思い出したが、君は月曜もまともに食べていなかったな。
この一週間、一度でもちゃんと食事を取ったのか」
背中の窪みを指で辿りながら問うと、克哉は切なそうに頭を振った。
「御堂さん、だから、もう、食べられない…」
「駄目だ。欲しいのなら、先に全部食べろ」
情事の余韻を残すやつれた克哉、というのも魅惑的ではあるが、そのうち倒れてしまうだろう。
そんなことは絶対認めない。
苛めたくて仕方ないが、大事にしたくて仕方なくもある。
後頭部の髪を掴み、上を向かせた。
「君は私のものだからな。私がしっかり管理する」
克哉は小さく息を飲み、それから抑えきれない幸せを溢れさせた。
「…はい、御堂さん」