すべてをあなたに

 コンコン、と控えめに静室の扉が叩かれた。
 続いてこれまた控えめに声がする。
「魏先輩。おはようございます。朝餉をここに置きます。冷めないうちにお食べください」
 藍忘機は地方の世家の争いごとの仲介に出向いていて、随行している藍思追が置いていった世話役だ。
 魏先輩を朝起こす大役を仰せつかった年少の門弟が、もし起きてくれなかったらどうしようと毎朝びくびくしているので、いかに眠かろうが寒かろうが魏無羨は起きなければならない。
 冬の寒さも本格的となり、震えながら外に出て、朝餉の入った籠を持ってなかに戻った。
 運ぶあいだに冷たくならないよううつわごと温められた粥は、蓋を開けると湯気が立った。
 さて、今日はなにをしようか。
 寝着のまま粥をすすりながら考える。
 藍忘機がいるときは寝坊させてくれるので時間は適当に過ぎるが、規則正しい生活をすると案外手持無沙汰になる。
「一緒に行けばよかったかなあ」
 今回の問題の当事者に魏無羨と折り合いの悪い者がいて、行けば話がややこしくなりそうだったのだ。
 着替えて食器を返しに行くと藍啓仁に見つかりいろいろ雑用を言いつかった。働いていると昼になり、沢蕪君も一緒に三人で昼食を取り、食うに語らずを何度も破ってそのたび藍啓仁に注意された。
 これは日常においていつもの光景で、逆に黙って食べていると「どこか具合が悪いのか」と心配される。
 午後からは解放されたので戻って昼寝でもしようと歩いていると、見知った門弟が鍛練していたので声をかけた。ほかの門弟も寄ってきて指導だか茶々入れだかをしていると時間が過ぎて、いつの間にか日が傾いていた。
 静室に戻るとほどなく、朝と同じ門弟が夕餉を運んできた。
「あとで温石を持ってきます。今宵は冷えます」
 そう言う門弟の頭に白い雪が乗っていた。
「また降ってきたのか」
 手で何気なく頭の雪を払ってやると、門弟は目を丸くした。
 藍氏はあまり他人に触れないのに、魏無羨はいまだにうっかりやってしまう。
「悪い。驚かせたな」
「いえっ。大丈夫ですっ」
 声を裏返して駆けていく後ろ姿に。
「走るのは家規違反だぞー」
 のんきに声をかけた。
 酒を飲みながら夕餉を食べ、雪を眺めた。
 藍忘機が出かけてから描き始めた絵を食後に少し描き、明日の朝また門弟に起こされるので亥の刻に寝た。

 夢を寝た。
「師姉」
 懐かしい江厭離がそこにいた。
 いつもの夢のぼんやりした感じではなく、はっきりそこにいると感じる師姉だった。
「阿羨」
 優しい声に目が熱くなった。
「師姉」
「幸せなのね、阿羨」
 魏無羨は頷いた。
「金凌。そうだ、師姉。金凌を呼ばないと。それから江澄」
 江厭離は笑みを深くした。
「阿羨。あなたったら、いつまでも自分のことより人のことなのね。大丈夫。阿凌にも阿澄にも会ってきたわ。それに」
 私はずっとあなたたちのそばにいたのよ。
「阿凌と仲良くしてくれてありがとうって、夫も言っているわ」
「金子軒も師姉と一緒にいるの?」
「夫婦ですもの」
 くすりと江厭離は笑った。
「阿羨、そんな顔をしないで」
 魏無羨は師姉の言うそんな顔がどんな顔なのか、自分でわからなかった。
「師姉。金子軒に謝りたい。いや、許されると思っていない。師姉にも。師姉にも謝らないと。師姉の幸せを俺が壊した」
 師姉は静かに頭を振った。
「時間があれば、あなたたちはきっと理解しあえたわ」
「俺と? 金子軒が?」
 顔をしかめたが、江厭離は笑っていた。
「もう行くわね。またいつか会いましょう」
「俺とは今生限りのほうがいいかも」
「阿羨」
 いたずらを叱るときの口調だった。
「あなたの姉で私は幸せだったわ」
「俺も、師姉の弟で幸せだ」
 涙で師姉の姿が見えなくなると思い、魏無羨は泣くのをこらえた。
「さようなら、阿羨」
「さようなら、師姉」
 さようなら。ありがとう。

 朝、魏無羨を起こしに来た門弟は、声をかける前に戸が開いて思わず空を見た。
「雪なら止んだぞ」
「失礼しました。魏先輩がご自分で起きてられるなんて、なにかの前触れかと思いまして」
「おまえ、初日は震えていたくせに、なかなか見どころがあるじゃないか」
 ほっぺたを軽くつまむと、ひゃいっと変な声を出して、昨晩と同じように走って逃げた。
「だから、走るべからずだろー」
 冬空に魏無羨の笑い声が響いた。
 門弟が置いていった朝餉の籠を持ってなかに入り、今日も温かい粥をすすりながらあらかた仕上がった絵を眺めた。
 明け方、泣きながら目が覚めてから、筆を取っていた。
 描いたのは雲深不知処の四季の風景だ。
 魏無羨にとって今でも恋しいのは在りし日の蓮花塢だが、雲深不知処は藍忘機を育んだ大切な場所だった。
 今日あたり藍忘機が帰ってくる気がする。
 この絵を見たらどんな顔をするだろうか。
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Posted by ありす南水