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仙督の道侶
ある世家で清談会が執り行われたあとのことだった。
そう大きくはない世家なので、門から市井の町までの距離が近かった。
仙督含光君を見送りに大勢が外に出たところに、粗末な身なりの女が駆け寄った。
取り押さえられる寸前、女は赤子を掲げて叫んだ。
「仙督さま! あなたの子です!」
次の瞬間人垣が崩れ、含光君、藍忘機までの道がさっと開いた。
世の人々同様、仙門の人間もこういう話に目が無い。
とはいえ、誰も女の言葉を信じたわけではない。
現仙督の高潔さは周知の事実であり、追い落としたい者が弱みを探したこともあるが徒労に終わった。
転がるように藍忘機の前に出た女は赤子を差し出した。
「私の姉があなたさまに情けをかけられ、生まれた子です!」
みなが反応を確かめたのは白皙の美貌を湛える藍忘機ではなく、その隣に立っている黒衣の男だった。
髪を結い上げず冠をつけず、仙門の理の外にいるその男こそ夷陵老祖。藍忘機の道侶、魏無羨。
含光君が過去誹りを受けた事柄はすべて魏無羨に関してのことであり、一度は世紀の大悪党と言われた夷陵老祖の名誉が回復されてからは、それすら真実を見抜く慧眼と褒めそやされていた。
魏無羨が道侶の不貞疑惑にどのような態度を取るのか。
興味津々の視線を感じると、魏無羨は頭を軽く振った。
「あー、つまりお嬢さんは仙督にこの子の名付け親になってほしいんだな?」
藍忘機以外の全員が、は? となった。
違うと言いかける女に、魏無羨は人差し指を立てて振って見せた。
「よしよしわかった。緊張してちょっと言い方を間違えたんだな。お嬢さん、君はついている。含光君は普段無茶苦茶忙しいが、このあとは少しだけ時間がある。ただ良い名を考えるには赤子について知る必要がある」
魏無羨は女に目線を合わせるためにかがんでいたが、姿勢を直し周りを見渡した。
「それでは仙門百家のみなさん。清談会、ご苦労さん。仙督含光君と魏無羨はここで失礼する」
仙督に時間があるというのは本当だった。
清談会のあと魏無羨と過ごすしばしの[[rb:暇 > いとま]]を予定に入れてあったのだ。
魏無羨は野次馬をまき、行くつもりだった宿に藍忘機と女と子どもを連れていった。
「ああ、肩がこった。なあ、藍湛。俺、行儀よくしてただろ?」
「まあまあだ」
「この俺が清談会のあいだ中、酒を飲まなかったんだぞ?」
「今、飲んでいる」
「終わったからな」
魏無羨の空になった杯に、藍忘機は酒を注いだ。
部屋には酒のほかに料理も運ばれていて、膳を前に女は夢中で箸を動かしていた。
赤子は先に宿の主人に頼んで、子のいる女から乳をもらって今は魏無羨の膝の上で眠っていた。
「どんなに周りがうるさくても泣きもしない。将来大物になるな」
実際は泣く元気もないほど衰弱しているので、魏無羨は女にわからないよう赤子に霊力を送っていた。
「君もたいした度胸だ。場合によっちゃ、殴られるぐらいではすまなかったかもしれないんだぞ」
女は飯碗から顔を上げた。
「これもなにかの縁だ。帰るところがあるなら送るし、ないなら働くところを探してやろう」
箸と碗を持った女は魏無羨を睨んだ。
「あたしを売り飛ばそうとしている?」
魏無羨は笑った。
「含光君を金持ちだと思ったから、子を託そうと思ったんだろう?」
女はうつむいた。
「とりあえず食え。腹が減っているとろくなことを考えない」
藍忘機は終始黙ったまま、魏無羨を見ていた。
ほどなくして不浄に行くと部屋を出たきり、女は姿を消した。
子は魏無羨の腕のなかだ。
人を出して探させましょうかという宿の者には、必要ないと答えた。
「それよりこの子にもう一度乳を与えたい。あと、清潔な肌着も譲ってもらえるとありがたい。支払いは」
藍忘機がさっと銭袋を出して、魏無羨はにっこり笑った。
「含光君がしてくれる」
夜になり、泣き始めた子を連れて魏無羨は外に出た。
縁台に座ってあやしていると、女が戻ってきた。
「ずっと出なかったのに乳が張って」
魏無羨は女に子を渡し、乳をやっているところを見ないようからだの向きを変えた。
「やっぱり君が母親だったんだな」
女は胸元を直しながらうなずいた。
「仙督には外に大勢子どもがいるって聞いたから、ひとりくらいわからないかなって思って。でもあたしを見て知らない女だって言われたら終わりだから、姉の子だって言ったの」
魏無羨は苦笑した。
「情報がだいぶ古いな。あちこちに子どもがいたのは、前の前の仙督だ」
「そうなの?」
女は勢いよく振り返り、それから魏無羨の顔を見た。
「あんたは、魏無羨だって言ったよね」
「ああ」
「魏無羨ってもしかして、夷陵老祖?」
「ああ」
「似姿と全然違う」
魏無羨は顔をしかめた。
「あんなものを似姿と言うな。夷陵老祖に子が食われると、心配になって戻ってきたのか?」
違う、と言いかけて女は口ごもった。
「嘘。ちょっと思った」
はは、と魏無羨は笑う。
「ごめん」
女は子を抱いたまま居住まいを正し、身の上を語った。
子ができたと告げると男に逃げられた。家は追い出された。ほかに頼れる人はいない。
どうか働くところをご紹介くださいと、頭を下げた。
「女がひとりで子を育てるのは大変だぞ。我らに託すなら養い親を探してやるが」
女は子を胸に強く抱いた。
「あたしが、育てたい。育てます」
数日宿に滞在した仙督と魏無羨はそのあいだに女の働き先と住まいを見つけ、慈悲深い行いだと仙督の名声は益々高まった。
別れ際、魏無羨は女に木簡を渡した。
そこには子の名前が記されていた。
「仙督が名付け親だ。その子は幸せになるだろう」
雲深不知処に戻ってからも、魏無羨はしばらく思い出しては赤子の話をした。
「情が移ったか」
と、藍忘機に問われ、かもな、と笑う。
「藍湛は、子がいればいいと思ったことはないのか?」
「ない」
と、藍忘機は迷いなく答えた。
「私はおまえがいれば不足はない」
それに、と続く。
「我らには、おまえが生んだ思追がいる」
きょとんとしてから、魏無羨は大笑いした。
「そうだった。そうだった」
「もうひとり欲しいなら、また生め」
「いや、もうじゅうぶん。俺も今が幸せだ」
それから魏無羨はもう赤子の話はしなくなった。