夜中に目が覚めた藍思追は、そのあと再び眠りにつけず布団から抜け出した。
 松額を付け、衣服を整え外に出る。
 こんな時間に雲深不知処を歩く者は寝ずの番以外にはおらず、とても静かだ。
 歩いて気持ちを静めようと足を進めた藍思追は、屋根の上に動く人影を見て驚いた。
「魏先輩」
 思いのほか声が響いて、藍思追は慌てて口元に手をあてた。
「思追。なにしてるんだ、こんな時間に。まあ、いいや。こっちへ来い」
 天子笑を持った手で招かれ、藍思追はひらりと屋根の上まで飛んだ。
「魏先輩こそ、ここでなにをしているんですか?」
 俺か? と魏無羨は笑った。
「俺は月を見ながら酒を飲みつつ藍湛を待っている」
「含光君は明日の朝お帰りになるのでは?」
「予定ではそうだが。見ろ、こんなに月が明るいんだ。俺の予想ではもうじき帰ってくる」
 藍思追は微笑んだ。ふたりが仲睦まじいのは嬉しいことだった。
「雲深不知処は禁酒ですよ」
 魏無羨は特別なのをわかっていて言ってみると、魏無羨は大まじめな顔を作った。
「思追。俺たちは今どこにいる?」
「屋根の上です」
「その上にはなにがある?」
「空です」
「しからばおまえは雲深不知処とはこの空を含めてそう呼ぶと考えるか? 地を行くものは雲深不知処の土地にいると言えようが、空を飛ぶ鳥は雲深不知処の空を飛んでいるのか?」
「魏先輩」
 藍思追は言った。
「それは、屁理屈です」
 魏無羨は声を立てて笑った。
「しかし、亥の刻を過ぎているのに寝所にいないおまえも家規を破っている」
「朝になったら罰を受けます」
「逆立ちして家規を書くのか? よせよせ。俺までしなければならなくなるし、俺はそんなことはできん」
「魏先輩の分も私が罰を受けます」
 魏無羨はまた笑った。
「孝行息子を持って俺は果報者だ」
 で、と魏無羨は藍思追の顔を覗き込んだ。
「そんないい子がどうして夜更かしをしているんだ?」
 もうずいぶん大きくなったのに大根と一緒に植えられたときのような目で見られて、藍思追は恥ずかしくなった。
「別にたいした理由では。夢を見て」
「怖い夢か?」
「怖いっていうか」
 夢のなかで藍思追は温氏の一族の人たちと暮らしていたときの子どもで、なつかしいおばあさんが優しく言った。
 いいかい、阿苑。羨哥哥以外に見つかってはいけない遊びだよ。誰が来ても出て行ってはいけない。隠れておいで。羨哥哥が呼んだら出てお行き。そしたら阿苑の勝ちだから、羨哥哥にいっぱいほめてもらうんだよ。
 変な遊びだなあと阿苑は思ったが、温情おねえちゃんや寧おにいちゃん、六おじさん、それにみんながにこにこ笑っている。 
 羨哥哥が「見つけた」と言って抱き上げてくれるのを、阿苑は待った。
 だがいつまで経っても羨哥哥は来ず、さみしくなってきて阿苑は泣いた。
 羨哥哥以外に見つかってはいけないと言われたのを守って、静かに。
 おばあさんが置いていってくれた水と食べ物もなくなって、それでもうずくまってじっとしていると、どのくらいあとか。静寂を破り人の気配がした。
 からだが動かず、口だけ動かした。
「羨哥哥」
 小さな声だったが、哥哥は見つけてくれた。
「阿苑」

「そこで目が覚めました」
 藍思追の夢の話を聞き終えた魏無羨は、しばらく黙っていたがやがて言った。
「ごめんな」
「いえ、そんな。魏先輩が謝られることでは。あの、やはりこれは本当にあったことなんでしょうか」
「たぶんな。みんながおまえを隠したんだ。最後におまえが俺だと思ったのは藍湛だろう」
 魏無羨は手を伸ばして、藍思追の頬を指でつまんだ。
「おまえはそのとき記憶をなくすほど高い熱を出していた。藍湛が見つけてくれて本当によかった」
 藍思追は少しのあいだ魏無羨の顔を見つめた。
「あの、でも。含光君が私を保護してくださったのって、不夜天の、決起集会、の直前のことだったんですよね。私のために寄り道をしなければ魏先輩をお助けすることができたのでは」
 今度は魏無羨が藍思追の顔をじっと見つめた。
「そんなことを気にしていたのか?」
 藍思追は頷き、魏無羨は瓦に手をつき足を伸ばした。
「物事にはどうにもならないことってのがあるのさ」
「でも」
「いずれにしてもおまえのせいじゃない」
 微笑む魏無羨が月明かりに照らされた。
「みんなが望んだように俺がおまえを連れて逃げていたとしても、おまえを守りきれたかどうかわからない。こんなに立派に成長してくれて、本当によかった。温寧に血縁がいることも幸いだ」
 そう言うこの人は天涯孤独なのだと気づき、藍思追の目に涙があふれた。
「羨哥哥も私の家族です」
 魏無羨はまた藍思追の頬をつまんだ。
「鼻の頭を赤くして。藍湛が帰ってきたらなんて言い訳するつもりだ?」
「魏無羨先輩に泣かされたと言います」
「こいつ」
 殴るふりをする魏無羨とじゃれあっていると、藍忘機が帰ってきた。
「藍湛」
 魏無羨は立ち上がって、下にいる藍忘機に手を振る。
「藍湛も来い」
「ん」
 屋根の上で魏無羨の手を取った藍忘機に、藍思追は礼を取る。
「おかえりなさい。含光君」
 なぜ思追までここにいるのかと視線で問われ、魏無羨は思追の肩を引き寄せた。
「思追が怖い夢を見たと泣くから、ここでおまえを待ちながらあやしていた」
「ち、違いますっ。泣いてませんっ」
「鼻の頭が赤いだろ?」
「これはっ。違いますっ」
 してやられて焦る藍思追を魏無羨は笑う。
「気は晴れたか?」
 藍忘機に問われ、藍思追は頷いた。
「はい」
「では、戻って休め」
 魏無羨が口を尖らせた。
「藍湛、藍湛。冷たいやつだな。せっかくなんだ。もう少し三人で月を愛でよう。あと、土産は?」
 藍忘機は魏無羨に酒壺を差し出した。
「おお、さすが含光君。ほら、ここに座れ。思追はこっち」
 ふたりのあいだに座らされそうになり、藍思追は飛び退いた。
「私はもう寝ます。おやすみなさい。失礼します」
 そそくさと礼をして、止められる前に飛び降りた。
 含光君は魏先輩に一時《いっとき》でも早く会いたくて帰ってきたのに、邪魔をすることなどできようか。
 振り返って見ると、ふたりは肩を寄せ合って屋根の上に座っていて、藍思追は微笑んだ。

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Posted by ありす南水