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山間《やまあい》の村の春の景色だ。
空は青く、穏やかな風が吹き、水車が回っている。
だがとても静かだ。
物音ひとつしない。
気配を感じて右手側を見ると、子どもがひとり藍忘機を見上げていた。
「魏嬰」
名を呼ぶとにこっと笑った。
「すごいな、藍湛は。こんなところまで来られるんだ」
少し舌ったらずだ。
「魏嬰、帰ろう」
込み上げる感情を抑えて藍忘機は言ったが、魏無羨は頭を横に振った。
「俺はここでいいよ。あったかいし、腹も空かないし」
「でも誰もいない」
人はおろか、家畜も、小鳥さえいない。
「だから俺は俺の悪口を聞くことがない」
藍忘機は顔を歪めた。
これは夢だ。
だから魏無羨は本当のことを話す。
「みんなおまえを待っている」
小さな魏無羨は笑っているだけだ。
「魏嬰。ならば、私も共にここにいさせてくれ」
「ここは藍湛のいるべき場所じゃない」
「私は、どこにいろと?」
「含光君の名にふさわしい、日の当たる輝かしい道」
藍忘機は地面に膝をついた。
「おまえと一緒ならば、険しい道を行くのも悪くない」
魏無羨はじっと藍忘機を見ている。
「前にも言った。忘れたか?」
「物覚えが悪いんだ」
「ならば何度でも言おう。おまえと共に在りたい」
魏無羨は困ったような顔になり、周りを見てからまた藍忘機を見た。
「藍湛、なんで泣いてるんだ?」
「おまえと会えて嬉しくて」
「嬉しいのに泣くのか?」
「おまえをまた失うかと思うと怖い」
小さな手のひらが藍忘機の頬の涙を拭った。
藍忘機はその手を握る。
「ひとりで旅に行かせるのではなかった」
「親切にしてくれる人もいた。世のなかにはとても優しい人もいるんだ。ガキの頃放浪していたときもそうだった」
「幼い頃ひとりでいたときと同じ気持ちになったのか」
「あー、うん、まあ」
指で鼻を掻く魏無羨はいつの間にか大人の姿に戻っていた。
「藍湛。立てよ」
藍忘機は魏無羨の両手を自分の両手で包み込み、額につけて頭を振った。
「私はおまえに乞うている」
「なにを」
「愛を」
魏無羨の手が震えたが、藍忘機は強く握って離さなかった。
どこからか香の匂いが漂ってきて、周囲の景色ががゆっくりと薄れていく。
魏無羨は両手をそっと抜くとその手を藍忘機の肩に置き、膝を折って藍忘機の松額に口づけた。
目を開けると最初に見えたのは覚えのある天井だった。
星空を見ながら眠りにつくとき、帰りたいなと何度も思った静室だ。
濃く白檀の香りがする。
胸の上に重みを、なに? と思う前に藍忘機が顔を覗き込んできて同時に重みがなくなった。
「ら」
声を出そうとして、長く喋っていなかったせいで途切れた。
「藍湛」
言い直すと、頬に藍忘機の涙が落ちてきた。
温かい。
「魏嬰」
「うん」
まだ声がちゃんと出ないが、藍忘機は安堵の表情を浮かべた。
「魏嬰。私のそばにいてほしい」
「うん」
「ずっとだ」
「うん」
ああ、それにしても。
魏無羨は思った。
含光君は、泣き顔もきれいだ。