食魂獣に困っている、というわりに村人の態度が妙ではあった。
 旅の仙師と見るや夜狩を頼んできたのに、そのあと魏無羨と目を合わせない。
 退治できない妖に贄を差し出すことで多くを守る市井の人々のやり方について聞いたことはあったが、予期しなかったのは教えられた場所のずっと手前で妖と対峙したとき、突然村の老人が現れ魏無羨にぶつかってきたことだ。
「土地神さま! どうぞこの男の霊識を食べてお鎮まりください!」
 膝をついた魏無羨は妖の注意を老人に向かせないため動くことができず、妖が吐き出した繭のようなものに閉じ込められた。
 甘い匂いと生温かさ。そして急激な眠気。
「藍湛」
 遠い姑蘇にいる知己の名をつぶやいたあと、魏無羨は意識を手放した。

 
 

  夷陵老祖が死んだらしい。
 その噂を聞いたとき、藍忘機は心臓を冷たい手で掴まれたような気がした。
 魏無羨はもう一年以上行方不明だ。
 旅に出たあと定期的に雲深不知処に顔を見せに来ていたのに、ある時藍忘機が不在だった折すぐ立ち去ったのを最後に音信不通となっていた。
「私の引き留め方が悪かったのかも知れない」
  兄はそう言ったが、そんなことがあろうはずがない。
 とはいえ、魏無羨が雲深不知処で藍忘機の帰りを待とうと、あるいは待てると思わなかったのも事実だった。
  観音廟の事件のあと、混乱する仙門から距離を置くほうがいいだろうと旅に出したが、もう落ち着いたのでここに腰を据えよといつ言えばいいのかわからぬまま時間だけが過ぎ、その結果がこれだ。
  かつて藍忘機は見かけの正邪に惑い、魏無羨を孤立させ失った。
 また同じことをしてしまったのか。
 探しに行こうとした藍忘機を止めたのは、藍思追だった。
 もっと早くに噂を耳にしていたという藍思追は、温寧と共に魏無羨の行方を追っていた。
「今も寧おじさんが探しています。どうか今しばらくお待ちください」
 藍忘機にとって藍思追は、魏無羨への果てない追憶の子だ。
 その子の懇願を無下には出来ず、やがて温寧から連絡があったときには兄があとのことを引き受けてくれる手筈が整っていた。
  藍忘機は仙督としての職務を放棄することなく、雲深不知処を離れた。

 

 そこは長い洞の向こうに広がる不思議な世界だった。
 昼でも夜でもなく、明るいのに暗く、日の光と星の瞬きが同時に存在した。
 木でも岩でもないもののあいだに吊るされた、大きく透明な繭のなかに魏無羨はいた。
 陳情を胸に抱き胎児のようにからだを丸め、目を閉じている。
 避塵を鞘から抜き放ち、藍忘機は高く飛んだ。落下するまま繭を切り裂く。
 花の蜜のような匂いがあたりに広がり、繭を満たしていた水が雨のように降り注ぐなか温寧が魏無羨を受け止めた。
「魏公子!」
 ずぶ濡れになりながら、温寧は魏無羨を呼んだ。
「息は」
 藍忘機の問いに温寧はすぐ答える。
「しています!」
 ですが、と続く。
「霊識が」
 藍忘機は温寧に代わり魏無羨を抱き上げた。
 表情は繭のなかにいたときと変わらず安らかだが、硬くつむられた目が開く様子がない。
 繭がなんだったのか正体はわからないが、人の霊識を養分とし食われた人間はやがて死に至るのだろう。
 藍忘機は魏無羨を雲深不知処に連れ帰った。

 
 

 夷陵老祖が死んだらしいという噂は不浄世まで届いていた。
 思うことはいくらかあったが、もう自分には関係ない、そう思っていた聶懐桑は沢蕪君に呼び出された。
 雲深不知処で問答無用で藍忘機に引き合わされ、それから眠る魏無羨を見せられた。
 どんなに手を尽くしても起きないという。
 肉体の衰弱は霊力を送ることで補えるが、目が覚めなければそれは死と等しい。
「なぜ二哥が私を呼んだのか、さっぱり理由がわからないのだけどね」
 扇を動かしながらそう言った聶懐桑は、暗い目をした藍忘機に首をすくめた。
「白々しいやりとりをする余裕もないか」
 扇をぱたんと閉じる。
「生憎と私は真実役に立たないよ。だが身を捨てる者を探してこいと言うなら、ほかならぬ魏兄のためなら探さないこともないが」
「捨身呪で魏嬰の目が覚めるなら私が行う」
 聶懐桑はなんとも言い難い顔をした。
「正気になりなよ、藍忘機。目が覚めて君がいなくて魏無羨がどうなると? あと、言ってみたけど二回も捨身呪を受けた人なんて聞いたことがないから、どうなるかわからない。まあ、無理ってこと」
 四方の壁と天井と床に術が施され、さらに念入りに何枚も呪符が貼られている。
 あらゆる邪の侵入を許さない部屋の中央に、魏無羨は寝かされていた。
「そんなに大切ならなぜ旅になど出したんだい。魏兄は邪なるものにとって極上の贄だと知らなかったわけではないだろうに。いやだな。うつむかないでよ。この私が藍忘機をいじめるなんて冗談にもならない」
 ふう、と聶懐桑はわざとらしくため息をついた。
「意地悪ついでに言ってさしあげよう。大切なものならばしまっておくがいい。誰にも傷つけられないようにね」
「ない」
「はい?」
本当に聞き取れなかったのだが、嫌味たらしく聞き返した。
「魏嬰の望まぬことはしたくない」
 声を立てて笑ってしまいそうになり、聶懐桑は慌てて扇を広げた。
 聶懐桑は藍忘機がこういう男だと知っている。だから魏無羨を蘇らせたのだ。どのようなことがあっても彼を守るだろうと。
「だがそれにしてもなんとまあ」
 ぱたぱたと扇を動かす。
「なんにせよ私はなんにもできないよ。今回は肉体が完全に残っている。そのうち霊識が自然に修復されて意識が戻る」
 すがるような目を藍忘機に向けられたのを無視して続けた。
「かもしれない」

 そそくさと雲深不知処を去ろうとした聶懐桑だったが、厳しい顔をした沢蕪君に阻まれた。
 へらへらと笑ってみても、沢蕪君の表情は変わらない。
「霊識の修復に関して、おまえはほかの者より詳しいのではないのか」
 莫玄羽を使って捨身呪を行ったことを言っているのだろうが、証拠を突きつけられない限り聶懐桑はとぼけるつもりでいた。そして、証拠などない。
「含光君にも言ったけど、私にできることはない」
「懐桑」
 聶懐桑は顔をしかめた。二哥に対して扇で顔は隠せない。
「わかったよ。考えるよ。でも本当に、ほんっとうにこの件では私は役に立たないんだって。そうだな。魏兄を閉じ込めていたという繭だけど、肉体にはまったく傷をつけずに霊織だけ溶かしていた。それはおそらく長く味わうためだろう。食べてはちょっと回復させる。魏兄の魂はそれはそれは美味なんだろうね」
 あけすけな物言いに戸惑う様子を二哥らしいと聶懐桑は思った。
「だとすれば苦痛は与えないはずだ。痛みは体力を消耗させ回復を遅らせるからね。魏兄は繭のなかで幸せな夢を見ていたんじゃないかな」
「夢?」
「そしてたぶん今も見ている」
「だから目覚めないと」
「今考えた当てずっぽうだけどね。でも意外といい線行っているかも。魏兄はああ見えて繊細な人だし」
 沢蕪君が意外そうにするのに聶懐桑は笑う。
「魏兄が無敵なのは人のことに対してだけだよ。みんな誤解しているし、魏兄本人も勘違いしてるかもだけど」
 もしかして、と続ける。
「旅に出すという名目で、藍氏はていよく魏兄を雲深不知処から追い出したのとは違うの?」
 仙門百家はそう捉えている。
「懐桑。なにを言っている。忘機はいつ魏公子が戻ってもいいように用意していたし、我らもそのつもりだった」
 なるほど、と聶懐桑は思った。
 旅に出る前、魏無羨は結構長い期間雲深不知処に滞在していて、藍忘機の仙督就任を見届けるようにして去ったのだ。
 野心がないか、すなわち藍忘機の障害にならないか、魏無羨に確認され、釘を刺されたことを聶懐桑は思い出す。
「ねえ、二哥。魏兄は本当に旅になんか出たかったと思う?」
「え?」
 聶懐桑は懐から扇を出して口元を隠した。
 今自分は意地悪な顔をしているだろうと思った。

 
 

 魏無羨が見つかった場所にほど近い村を調べに行っていた藍景儀が、ロバを連れて雲深不知処に戻った。
 繭の正体は不明だったがおおよそ聶懐桑が推察した通りで、村人は魏無羨に退治を依頼し、実際は騙して贄とした。
 憤慨する藍景儀の報告を聞いたのち、沢蕪君と藍啓仁は暗澹とした気持ちになった。
「あのお調子者め。おかしいとは思わなかったのか」
 藍景儀を下がらせてから藍啓仁は吐き捨てるように言った。
「思ったとしても、魏公子なら行くでしょう」
 沢蕪君は眉根を寄せて言った。
 藍忘機は魏無羨が眠る部屋から出てこない。
 既に理由もなく仙督が不在でいられる期間は超えたが、仮に無理矢理外に出してもとても任に就けるような状態ではない。
「魏無羨が本当に夢を見ているのなら」
 藍啓仁は箱をひとつ取り出し蓋を開けた。
 なかには獏をかたどった香炉が入っていた。
「蔵書閣にあったものだ。書によると人の夢路を辿れる」
 沢蕪君は叔父の顔を見た。
「叔父上」
「忘機に渡してやるとよい」


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Posted by ありす南水