(4)
バクラザンの支援を受け、アルミリアは結婚という足枷なしに家を離れた。
アパートを借りてひとりで暮らすつもりだったが、侍女がついてきた。
ヴィーンゴールヴは一年中緑が多いが、そのときは特に花盛りだった。
中庭を通る通路を走って応接間に急いでいると、向こうからマクギリスがやってきた。
「マッキー!」
駆け寄って、抱きついた。年の離れた兄の親友は、兄が家に帰ってくるときにはいつも一緒だったので、アルミリアにとって一番近しい他人だ。
マクギリスはアルミリアを片手で抱きかかえると、通路を外れて芝生を踏んだ。
「マッキー?」
そっと緑の上に下ろされ、マクギリスは片膝をついてアルミリアと目線を合わせた。
「婚約の話は聞いたかい?」
首を少し傾け問われ、アルミリアは頷いた。
「君は私でいいのか?」
なにを訊かれているのかわからず、アルミリアも首を傾けた。
「君は私が婚約者になっていいのか?」
「もちろんよ?」
どうしてそんなことを訊くのかと思った。
「マッキー、大好きよ」
マクギリスはじっとアルミリアの瞳を見つめたのち笑い、右手の手袋を外し、アルミリアの右手を取った。
「アルミリア。私の妻になってくれますか?」
それは初めて聞く大人の真摯な声だった。
そのときまでアルミリアは、結婚の意味が本当にはわかっていなかった。父の決めた相手に嫁ぎ、家の繁栄に貢献するのが務めだと教えられて育った。その相手が優しいマッキーであることを、無邪気に喜んでいただけだ。
マクギリスの手は大きく温かかった。結婚するとは、マクギリスの妻になるというのがどういうことか、このときアルミリアは本質的に理解した。
喜びが胸に溢れてきて、アルミリアは答えた。
「もちろんよ」
手の甲に口づけが落とされた。
マクギリスは礼装だった。
家同士の取り決めではなく、ふたりのこととしてプロポーズしに来てくれたのだ。
「諸君らは生まれゆえにその権利を有しているのではなく、才能と努力を認められギャラルホルンに所属している者たちだ」
小型のレコーダーから流れてくるのは、懐かしく愛しい人の声だった。
「にもかかわらず、このなかで能力をいかんなく発揮していると胸を張って言える者がいるだろうか。己は実力にふさわしいところに立っていると、思っている者がどれほどいるか。理不尽に歯を食いしばったことは? 虚しさに打ちひしがれたことは? そんな現状に君たちは本当に満足しているのか? いつか退官する日まで、甘んじて境遇を受け入れ、黙って座しているつもりなのか?」
「よろしいでしょうか」
「君は」
「ライザ・エンザと申します。お話を遮って申し訳ありません」
「かまわない。続けたまえ」
「ありがとうございます。それでは。我々にも上に行くチャンスはあります。どなたかの目に止まり引き立てていただければ」
「曖昧な評価で、君ひとりが取り立てられることはあるかもしれない。だがほかの者は? あるいは君ではない誰かが選ばれ、君がその者より自分のほうが優れていると感じた場合は?」
「それは」
「君が今頼りとしたのは、かくも儚い権力者の気まぐれだ」
少しの間があった。
「それは、その通りです」
「ならば君はどのようになれば、力ある者がその才を発揮できると思う?」
「試験を、後ろ盾のある者もない者も、同じ試験をしていただけたら」
そんなものを受けさせてもらえるなら苦労はしない。
発言の許可も求めず、誰かが言った。
「なぜ? 正当に評価されたいと思う気持ちを、なぜ諦める」
聴衆がざわめいた。
「間違っているのは君たちか? 日々研鑽を積み、己の力でここに来た君たちが間違っているのか? 違うはずだ。間違っているのはこの社会の仕組みで、それは人が作ったものであり、変えることができる。ほかならぬ、諸君らの手で、変えることができるのだ」
熱気を帯びた拍手が起こった。
アルミリアは閉じていた目を開け、目元の涙を指で拭った。再生を終えたレコーダーは胸元で握りしめている。
「それにはあとふたつ別の演説も入っておりますので、どうぞお持ちください。奥方様にお渡しすることができて光栄です」
ファリド夫人に面会を求めてアパートを訪ねてきた男は、恭しく頭を下げた。
「こういった集会は何度も開かれ、同志が募られました。蜂起のあと、准将の副官だった石動・カミーチェが私を含む何人かにこれを配りました」
客間がないので食事をするテーブルに向かいあって座る男を、アルミリアの後ろに立つ侍女が警戒して睨みつけている。
「石動は我々に、必ず生き残り准将と我々の思いをのちにつなげと言いました。石動は地球圏での戦いで倒れ、私は火星まで准将に同行しました」
最後まで付き従った者たちを解放し、マクギリスが単機でアリアンロッド艦隊に挑んだことなども話す。
「准将の理想は崇高なものでした。私はそれに殉じたかった」
男はくたびれた上着を着て、熱に浮かされたような目をしていた。あの司書と同じだ。
「よろしければお茶を飲んでください。私、紅茶を淹れるのだけは少しだけ自信があるの。昔とっても練習したので」
ね、と目線を向けると、侍女は気まずそうな顔をしたが口を開いた。
「マクギリス様も、お嬢様のお茶は美味しいと仰っておられました」
准将が、と呟きながら男はカップに口をつけた。
「美味しいです」
「そう。よかった。あなたは今も活動を?」
男は頷いた。
「あまり過激なことはなさいませんように」
カップが乱暴にソーサーに戻された。
「ラスタル・エリオンが支配するこの世界が准将の目指した世界だと? 今も喪服を着ているあなたがそう仰るのですか?」
アルミリアはゆっくりと頭を振った。
「あなたや私は、あなたや私にできることをすべきです。違いますか?」
アルミリアと接触しようとする、自称と他称を含む革命軍の生き残りは多い。共通するのは今の世の不満だ。
彼らはみな寄る辺ない。
今後も連絡を取らせてほしいと、辞するとき男は言った。侍女が後ろで激しく頭を振っていたが、アルミリアは微笑んだ。
「いつでも」
男は何処かに去っていった。
「お嬢様は革命家になるおつもりなんですか!」
ティーカップを片づけているアルミリアに、侍女は怒った。彼女はもうメイド服を着ていないし、立場的には友人だ。
「そんなつもりはないって言ったのを、聞いていなかったの?」
「実際活動家と関わっていたら同じことじゃないですか。明日もよくわからない集会に参加なさるんでしょ」
「経済圏の統合に関する勉強会よ。知ってみないと、どういうものかわからないでしょう」
「当局に目をつけられたらどうするんですか!」
「そうなったら、私もたいしたものね」
「お嬢様!」
「冗談よ」
アルミリアはシンクでカップを洗いながら、何気ないことのように言った。
「私は政治家になろうと思うの」
侍女が目を丸くする。
「それも冗談ですよね?」
「本気」
カップをふきんで拭くと、侍女が受け取り戸棚に片づけた。
「お嬢様が政治家になられるなら、私は政治家秘書になろうと思います」
戸棚の扉がぱたんと音を立てて閉められた。
「本気?」
「お嬢様と同じくらい本気です」
アルミリアは笑った。
「それはたいしたものだわ」
それから付け加えた。
「ありがとう」