(9)

何年か前。皆本の住むマンション。
かつてクィーン達と暮らした、今は皆本ひとりの部屋。
「兵部、僕と関係を持とう」
無精髭の皆本の顔の向こうに天井が見えた。
「…は?」
兵部の両手首は皆本の両手でそれぞれ押さえられている。
「薫たちをおまえのところに行かせた。それでもあの未来は細部しか変わらない。ほかにいるんだ。別の要素が」
皆本の目はやたらぎらぎらしていた。
なんだろう。なにに欲情しているのだ、このメガネは。
お願い、京介。皆本の様子を見てきて。心配なの。お願い。お願い、京介。
クィーンにそう頼まれたから見に来たのだが、予想以上に皆本は病んでいた。
「あー、うん、わかった。じゃあ探してみようか、別の要素」
当たり障りなく言ってみる。兵部少佐がなんたるザマだ。
「探さなくていい。もうわかった。ありえないようなことだ。世界が逆さまになってもありえないような」
短気な兵部が根気を見せる。それほどにこの皆本はヤバイ。
「落ち着け、皆本。さてはおまえ寝てないな。睡眠不足は思考を妨げる。ちゃんと寝るんだ」
「寝るさ。兵部、おまえと」
「この…っ!」
皆本をぶっとばしてからテレポートで帰ろうとしたが、どうも妙だ。力が入らない。
皆本が平坦な調子で言った。
「ベッドの下におまえ用にチューニングしたECMをセットしてある。短時間なら有効だろう」
「おまえ! 殺すぞ! ほんとに!」
「兵部、協力してくれ」
片足を腹に乗せられて息が詰まりそうになるが、怯めば終わりだ。
「物を頼む態度か! 頭を冷やせ! ここまで来たら、おまえが撃たなきゃそれですむ話なんだよ!」
「わかってるが、それでも撃ってしまいそうなんだ!」
血を吐くように皆本が叫んだ。
「独占したいんだ! みんなのクィーンなんてものになってほしくないんだ! 僕だけのものにしたいんだよ!」
 兵部は息を呑んだ。
僕だけのもの。私だけのもの。
兵部もかつてそう言われたことがある。
近頃は意識して混同しないようにしていたのに、やはり皆本はあの男に似ている。
「兵部、協力してくれ」
掠れた声。
「泣くなよ」
「泣いてない」
泣いてるじゃないか。
そう思ってしまった。
うっかり。本当についうっかりと。

現在。隠居部屋離れ。
今日機嫌悪いな、と兵部は思った。
ヒノミヤは基本的に感情の抑制がとてもよく出来ているが、そこは長く一緒にいるとうまく出来ていないときにも行き当たる。兵部にあたってくるようなことはないし、むしろ日によってヒノミヤにあたりまくるのは兵部の方だ。
だがいつもと違う。
本を読んでいた兵部を後ろから抱きしめて、肩に顎を乗せてキスしてくる。栞を挟もうとすると、宙に浮いた本を叩き落とされた。
のしかかられて、口を塞がれる。仰け反りすぎて気道に唾液が入ってむせそうになった。
「ちよっと、待て、ヒノミヤ」
無駄だとわかって一応言ってみて、椅子から落ちるのを防ぐため、背中に腕をまわした。
いつもより乱暴だが、リミッターがオンになっているので、嫌だと思えば止めていいということだ。
半端なヤツ。
外でなにかあったのだろうが、透視もうとは思わない。プライバシーへの配慮ではなく、藪をつついて蛇を出したくない。
ベルトが解かれ、シャツはそのままにズボンごと下着を降ろされた。両足を肘掛けにかけられ、力を抜く前に押し入られた。
「…っ! い…っ」
「…痛い?」
「あ、たり前、だろ」
そのまま受け止めるのは老体にはこたえるので、コントロールしたが、若干タイミングがずれた。
「お、まえも、楽しんでるように、見えないが」
ヒノミヤは顔を歪めて、兵部のうなじに歯を立てた。
「そんなことはない」
耳元での低い声に、背中がぞくりとした。足のあいだに手を差し込まれ、直接の刺激に呼吸が熱を持つ。
「ヒノミヤ…っ、い」
「痛い?」
かぶりを振る。
「…いい」
兵部のなかの熱量がさらに大きくなった。いつもより性急に乱暴に揺さぶられ、頭のなかが白く霞んでいく。
「あ、…あっ!」
…熱い。
キスをしたい。
荒く息を吐きながらそう思ったが、ヒノミヤは兵部を椅子に座らせると、身繕いをして部屋を出て行った。

ぎりぎり兵部の能力圏内の離れの小さな中庭。
兵部が現れて浮いたままヒノミヤの首に腕をまわした。風呂に入ったのだろう。寝間着姿で髪が濡れている。
「風邪引くぞ」
「じゃあ戻ろう」
裸足の兵部は、勝手にお姫様抱っこの格好にヒノミヤに抱きつくと浮くのをやめた。重さが腕にかかり一瞬よろけたが、兵部を落とすわけにいかない。
昼間、ヒノミヤは用があって皆本に会った。
向こうのちょっとした物言いが不愉快で、だからといって喧嘩してくるようなことはなかったが、気持ちを引きずって帰ってきた。
たぶんヒノミヤのほうの虫の居所が悪かったのだ。皆本の、兵部のことなら僕がなんでもわかっている的態度はいつものことだ。
「ヒノミヤ。なかに入ろう。僕が風邪を引いてもいいのか?」
いいわけがないが。
「おまえはずるいよ」
荒れている理由を聞きもしない。
「そうかい? ごめん」
けろりと謝る。
とことんずるい。

翌日、皆本の執務室。
「殺すぞ、メガネ」
皆本が部屋に入ると、皆本の机に兵部が足を組んで座っていた。机の上にあったはずの書類は無造作に床に落とされている。
「そういう台詞は学ランじゃないとイマイチしっくりこないなあ」
へらっと笑った皆本への、かなり本気の殺意を兵部は抑えた。
「僕がなんで来たのかわかってるよな」
「ヒノミヤを苛めたからだろ」
さらっと言う。兵部の眉間に皺が寄った。
「貴様。僕が捨てられたらどうしてくれる」
「うちへ来ればいい。薫も喜ぶよ」
兵部はこめかみを指で押さえた。皆本とのことはあの時点ではほとんど不可避だったが、こんなに引きずることだとは思っていなかった。
「僕のところには坊ちゃんがいるが」
「心配するな。きちんと始末をつける」
「執念深いな」
「君ほどじゃない」
兵部は机の上の万年筆を取りキャップを捨て、皆本のからだを壁に貼り付けた。
「なあ、クソメガネ。老いらくの恋、舐めんなよ」
万年筆の先を首筋に突きつけても、皆本は眉ひとつ動かさない。
「冷や水はよくないって、兵部」
 本当に頭痛がしてきた。殺しはしないまでも、あのことの記憶を消してやろうか。
これまでそれをしなかったのは、薫にどう思われるかを危惧したからだが、どうも彼女は察している。あのときも兵部に皆本を助けろと言ったその後、どうなったかまったく聞かれなかった。
「勝手に記憶を消すなよ、兵部。ECMを作動させるぞ」
健康第一としている兵部にとって、無駄な消耗は控えるべきことだ。ちっと舌打ちする。
「あいつを傷つけたら許さない」
言い置いて兵部は消えた。

あのとき兵部に縋ったことは、一生の不覚だ。
万年筆を机に置きながら、皆本は思った。
当時、皆本の精神状態は普通ではなかった。来るとわかっている最悪の結末を、自らの手で為してしまうという恐怖に支配されていた。
兵部とヒノミヤとの関係は、知らなかった。知っていればあんなことは言い出さなかった。たぶん。
ヒノミヤが原因となった前のカタストロフィ号の沈没のあと、兵部は変わった。兵部がいろんなものを譲ってくれたからこそ、今がある。
だから、ギリアムは皆本が殺そうと、自分も手を汚して兵部の憂いをひとつ取り除こうとしたのに、当の兵部が邪魔をした。
恋人と過ごすために作った時間を、余計なお荷物の世話に費やし、本当に兵部は馬鹿だ。思い返せばそんなふうに、敵だったはずの皆本のためにも随分と世話を焼いた。
兵部は馬鹿だ。
その馬鹿に、一分でも多く満ち足りた時間を過ごしてもらいたいと思っている自分はもっと馬鹿だ。

さらに翌日、隠居屋敷。
元チルドレンの三人が予告なしに遊びに来た。それぞれに多忙で、三人揃うのは久しぶりだと言う。
「ここに来るって言うたらみんななんも言わへんから、今度から集まるんはここにしよ」
葵の提案に薫も紫穂も頷く。
お手伝いさんが張り切って菓子を作り、大喜びで彼女達は食べた。
「兵部とヒノミヤは喧嘩してるんだよ」
悠理やユウギリとは違うけたたましさに目を丸くしていたギリアムが、少し慣れたのか口を開く。三人はぴたりとおしゃべりをやめた。
「そうなの? 少佐」
紫穂が聞く。
「そうなのか? ヒノミヤ」
兵部はヒノミヤに聞く。
「…してねえよ」
ヒノミヤが仏頂面で答える。
「あのな。そういうのは痴話喧嘩っていうて、仲のいい人たちがたまにするコミュニケーションや。いちいち気にしてたらあかんで」
葵がギリアムに説明する。
「そうなのか?」
「そうね。薫ちゃんも昨日皆本さんと痴話喧嘩してたし」
「紫穂!  あれは皆本に説教してたの!」
「ふーん」
ふーん、と兵部も薫を見た。真似してギリアムも、ふーんと言う。

帰り際の一時。門の前で、薫はヒノミヤを呼び止めた。
「皆本がごめんね。叱っといたから」
「…へ?」
「京介の恋人はヒノミヤなんだから、差し出がましい態度はダメって、ちゃんと言っといた」
薫はばんばんとヒノミヤの肩を叩いた。
「細かいこと気にしちゃだめよ! 京介はヒノミヤのこと、大好きなんだからさ!」
「…あ、うん。」
 細かいこと。細かいことなのだろうか、クィーンにとって皆本と兵部のことは。と、ヒノミヤは考える。知らないはずはないだろう。ヒノミヤですら察している。
 実を言うとこのことにはあまり深入りしたくない。たまに感情が勝ってこのあいだのような真似をしてしまうが、藪をつついて蛇を出そうとは思っていない。
「あたし、京介は自分の一部みたいな気がするんだ! そこまでシンクロしなくてよかったんだけどって、京介には言われるけどね」
薫は笑顔で真顔だった。

「また来るねー!」
「来てあげるわ」
「ほななー」
元気いっぱいで元チルドレンたちは帰っていった。

母屋に戻ると夕食の支度のいい匂いがした。
ギリアムはキッチンで手伝いをしている。
「さて、僕らはしばし寛ごう」
 少し疲れたとリビングに向かおうとする兵部の手を、ヒノミヤは握った。
「俺ら、喧嘩とかしてたっけ?」
「さあ? きみはどう思う?」
 兵部はヒノミヤの肩にもたれるように軽くぶつかってきた。
「仲のいい人たちがたまにするコミュニケーションならしたかもな」
 兵部は笑った。
「ああ、きっとそれだ」

アン兵

Posted by ありす南水