(8)

ある日の隠居屋敷。
庭に出したテーブルで、ギリアムはぎこちない手つきで紅茶をいれていた。
「はい、兵部」
褒めてもらおうと期待一杯の顔で差し出されたティーカップを、
「ありがとう」
にっこり笑って、兵部が受け取る。
「冷めないうちに飲んで」
「そうだね」
ギリアムはじっと兵部を見つめた。
「おいしい? ねえ、おいしい? 兵部」
カップを傾けたまま、兵部は視線を上げた。
「なにか入れた?」
ほぼ同時に庭園の風景がヒュプノでぐにゃりと歪んだ。兵部はカップを受け皿に戻すと、テーブルに肘をついて額に手をあてた。
紅茶のなかの薬物と、このヒュプノは別物だ。
身に及んでくる催眠だけ跳ね返し、はあ、と息を吐いた。こんなことが知られたら、皆本に鬼の首を取ったかのように調子づかれるだろう。

欧州某所。
ヒノミヤは財団の仕事をしていた。
一度は辞表を出したのだが、非常勤でもいいからと慰留された。
これで給料は前よりいいし、パンドラとバベルは今となっては表裏一体のような組織で、それは元々そうであったのがはっきりしただけなのだが、自分の有益性はどちらでもないところにあると思っていたヒノミヤにとっては、ありがたい話だ。
但し、仕事となれば必ず週単位で出張となる。兵部をひとり残してくるならまだしも、もうひとりとほぼふたりきりにするのは心配が伴う。
外見は青年、中身は十歳程度の坊ちゃんにヒノミヤもだいぶ慣れたが、危険性については今ひとつ計れない。
会議から会合のあいだの移動に車に乗ろうとしていると、上着の内ポケットの携帯が震えた。振動のパターンで兵部からだとわかったので、同行していたスタッフを先に乗せ、地下駐車場の隅で電話を取った。
「どうした」
「寂しくなった」
「は?」
ヒノミヤが隠居屋敷を出たのは日付的には昨日だ。
「すぐ帰ってきてくれないか」
命令口調が常の兵部が、きてくれないかときたもんだ。
なにかあったな。
諾と答えて携帯を切り、別の番号を呼び出した。

数時間後、隠居屋敷前。
「うっわー。すごいわねえ、これ」
溢れ出すヒュプノを見て、紅葉は感心した。周辺には他に人が立ち寄る場所はないし、偽装も施している。
「姐さん、そんな面白そうに」
「実際面白いじゃない。思春期の男の子って」
紅葉はけらけら笑った。
完成度が高いとは言い難いヒュプノは、虚栄心と冒険心と淫夢のような要素が混ざり合っている、まさにザ・思春期だった。
「真木ちゃんも葉も思春期の頃は面白かったわよー」
ヒノミヤは口の端を引きつらせた。永遠の十五だか十七だかのあの兵部が親代わりで、男の子がどんな気持ちになるか、なんとなくわかる。このヒュプノも大元は同じ要因だと思われる。
「じゃあ、姐さん。俺、なか入るんで。ここまで助かった」
「一人で大丈夫? ついてこうか?」
「いやまあ、いけんじゃないかな」
加勢がいる事態なら兵部はそう言ったはずだ。
「このことは内密に。あとで連絡する」
「わかったわ。少佐によろしくね」
片手を上げて紅葉は姿を消した。

ヒノミヤがリミッターをオフにして進んで行くと、ギリアムはすぐ見つかった。
「おいこら、なにしてる」
庭に出したテーブルの脚の横にうずくまり、膝を抱えて震えているので、クソガキ、という言葉は飲み込んだ。
恐る恐るといった程で顔を上げたギリアムは、目に涙を浮かべていた。
「これは一体どういうことだ? 説明の前にまずヒュプノを消せ」
ヒノミヤが近づいたことによって周囲何メートルかは効果が消えたが、他は残っている。
「兵部が怒った」
ギリアムは声を震わせた。
「僕に怒ってる」
「そりゃまあそうだろ」
お手伝いさんは兵部が避難させてあり、安全な場所で眠っていたので実際の被害はないが、なにか間違えば惨事になっていた。
「僕はただ、兵部がもっと僕に優しくなってくれたらいいなって、そう思っただけなのに」
紅茶、飲んでくれなかった、という消えそうな声に、ヒノミヤは反応した。テーブルの上にはティーセットがあり、とっくに冷めた紅茶がカップに残っている。訓練された結果の勘が働く。
「おまえ、まさか、これになんか入れたのか」
ギリアムは膝に顔をうずめてぶるぶる震えている。
「答えろ。なにをした?」
「僕は兵部にもっと優しくしてもらいたかっただけなんだ!」
感極まって叫んだギリアムに、ヒノミヤは怒鳴り返した。
「ふざけんな、てめえ! とりあえずヒュプノ消せ! すぐにだ! いいか、ここでお前が自分で消すのと、俺が強制的に無効化させるのとでは意味が違うんだぞ! なにがって、俺のなかでな! とっととやれ!」
ヒノミヤの剣幕に驚いたのか、周りの景色が元に戻った。
日が傾きかけた庭園だ。
ヒノミヤはゲンコツでギリアムの頭のてっぺんを叩いた。
そこそこ力は込めたが、そこそこ加減はした。痛かっただろうが、そんなことをされたことのないであろうギリアムは驚きで固まった。
「いいか、よく聞け。兵部はああいうナリをしてるが、中身はご老体なんだ。変なもん口にして、なにかあったらどうする。やっていいことと悪いことがあるんだよ。覚えとけ」
わかったか! と重ねられ、ギリアムは反射的に頷いた。
「部屋に戻って反省してろ」
ぼろぼろ涙をこぼしながら、ギリアムは屋敷に戻った。

隠居屋敷離れ。
兵部は能力で、ヒノミヤも無効化の力で出入りする、ふたりの居住空間だ。寝室とキッチンとバスルームがあり、他から干渉を受けないように兵部がなにかしているせいか、昼間でも薄暗い。
「兵部、戻ったぜ」
引き戸を開けると、ベッドの上で兵部はからだを丸めて横たわっていた。
「大丈夫か?」
端に腰掛けて、兵部の髪に触れた。汗で湿っている。
「君、とても僕に失礼なことを言ってなかったかい?」
腕で隠していた顔があらわになった。やや疲れているが顔色は悪くない。
「誰がご老体だ」
「おまえ」
熱を確かめるついでに額にキスをする。
「なに飲まされたんだ。ドクター呼ぶか?」
「必要ない。ほとんど体内に入っていないし、コントロールもほぼ終わった」
口に含んだだけでこれなのだから、全部飲んでたら死んでたな、という呟きに、ヒノミヤは顔色を変えた。
「あの野郎、やっぱりボコってくる」
「まあ、それはあとで僕がやるとして」
ヒノミヤの手に兵部の手が重ねられた。
「今は別のことをやろうぜ」
艶っぽく微笑まれて、ヒノミヤは困った。
「おまえ、具合が悪いんだろ」
握られたままのヒノミヤの手が、兵部の下腹部に導かれた。ズボンの前は開かれていて、しかも射精で濡れているが、まだ限界まで張り詰めて震えている。
「なんとかしろ」
「命令なのかよ」
「お願いしてほしいか?」
余裕のある口調とは裏腹に、兵部は手を伸ばしてヒノミヤのベルトを外した。兵部にジッパーを下ろされるなど初めてだし、下着に手を突っ込まれて性器を取り出されるのも初めてだった。
口に含まれるのはまあ、経験があるが、大体嫌々なふうなので、貪るように口淫する様子は直接の刺激よりくらくらさせられた。
しばらくして、兵部はヒノミヤを握りしめたまま顔を上げた。
「お願いが足りないか?」
「いや、十分」
手を解かせると、押し倒して、兵部のズボンを下着ごと引きずりおろした。

鼻をすすって泣いていた。
兵部が怒った。
兵部はいつでも優しいのに、どうして。
兵部を閉じ込めておく檻の作り方を思い出したから作ってみただけなのに。
素敵な夢が見られるようにお茶をいれてあげただけなのに。
ヒノミヤも怒っていた。
頭、ゴツンて殴られた。
でもなんでだろう、そんなに嫌じゃなかった。
父上が僕を怒るときには、ゴツンてしない。
もっと冷たく、いらないものを見る目で、あれ、父上って誰だろう。
父上、父上はユーリが好き。父上、ユーリ、月を一緒に見た女の人。いもおと。ユーリ。僕の方が父上の役に立つのに、ユーリ、父上は僕を、僕を
ふいに頭の中で兵部の声が響いた。
おまえはこう言われて育ったんじゃないか?
「役立たず」
ギリアムの涙が止まった。

ギリアムの部屋。
ベッドの上でギリアムは膝を抱えて座っていた。
カーテンを開けたままの窓の外は、星明かりで照らされている。
ノックがされ、応える前に兵部はテレポートで入ってきた。昔のように学ランを着ている。
「さて、坊ちゃん。反省したかな?」
兵部は微笑んでいた。
「僕は、兵部にもっと優しくしてもらいたくて」
「うん」
「僕は、もっと」
「それはもういいよ」
腰に手をあてて、兵部は小首を傾げた。
「僕は君の望むようには君のことを好きではないし、好きにもならない」
残酷な笑みを浮かべて宣告する。
「僕と同じ粘着質な人間としては、君のこと、結構気に入っているけどね」
ギリアムは歯軋りした。その顔は憎悪に満ちている。
「わりとしっかり奥に沈めたはずなんだけど、やっぱり君レベルのヒュプノ使いだと暗示を固定するのは難しいねえ」
兵部はギリアムの顎の下に指を一本あてた。
「今日みたいなことは困るんだ」
「殺せ」
「なあ、坊ちゃん。短気は損気だぜ? ここは折れて生きてみないか?」
「腑抜けたな、兵部京介」
「君だって僕に甘やかされて、悪い日々ではなかっただろ?」
ギリアムは頭の片隅がぼやけてくることに気づいた。兵部のヒュプノが仕掛けられてきている。
「僕を殺さないこと、いずれ後悔させてやるぞ」
「いいね。悪役の決まり文句だ」
にこにこと笑う兵部の顔が霞んでいく。
「おやすみ、坊ちゃん。目が覚めたらヒノミヤにごめんなさいって言うんだよ」
兵部が指を弾くと、ギリアムの意識は途切れた。

隠居屋敷の庭。
兵部が表に出るとヒノミヤがいた。寝室からそのままのラフな格好だが、ズボンのボケットに拳銃が突っ込んである。
「やあ、ヒノミヤ、月が綺麗だね」
「出てねーよ」
あれ、と兵部は空を見上げた。
これ見よがしなため息をつくと、ヒノミヤは耳からイヤホンを引き抜いた。この屋敷を用意したのはヒノミヤで、あちこちに盗聴器を仕込んであることを、兵部は当然聞かされている。
「坊ちゃんは」
「寝たよ」
ヒノミヤは手を差し出した。
「じゃあ俺達も寝ようぜ。俺は明日、今日の分もスケジュール組み込まなきゃなんねーんだ」
兵部はその手に自分の手を絡めた。兵部の服が生成りのシャツに綿のズボンに変わる。
「戻るのか?」
「当たり前だろ。俺は今、不法入国状態なんだっつーの」
「そんなの、真木になんとかしてもらえば」
ヒノミヤは横目で兵部を見た。
「いいのか? 今日のこと話したら真木さんどうすると思う?」
「…説教だな」
兵部は暗い目をした。
「あいつ、この頃皆本と一緒になって僕のことを怒るんだ」
「ついでに俺まで怒られてる」
「いっそおまえが全部怒られたらいいのに」
「おまえは俺にも怒られろ。つか、叱られろ。ヤった直後の色気だだ漏れであいつの部屋行くんじゃねえよ」
「ヒュプノで往年のカッコイイ姿再現してたから大丈夫」
「アホか」
かつてがどうかはともかく、隠居してからの兵部はだいぶ印象が柔らかい。甘やかされて悪い生活ではない、というのはきっと兵部の感想だ。
「朝まではいるのか?」
兵部はヒノミヤの腕に抱きついた。
「ああ」
「じゃあ、抱き合って眠ろう。アンディ」
こいつ…、とヒノミヤは思ったが口にはしなかった。
ヒノミヤも兵部を甘やかすのは、悪い気分ではなかった。

翌日、欧州某ホテル。
仕事に戻ったヒノミヤは、バベルの皆本と会った。
「やあ。こんなところで会うなんて奇遇だね、アンディ・ヒノミヤ」
まったくだった。日本でさえも極力顔を合わさないようにしているのに。
忙しさをアピールして逃げようと算段したが、同行スタッフが気を利かせて立ち話をする時間を作った。
「いいスタッフだね」
顔は笑っているが、オーラが笑っていない。
「ところでヒノミヤ、君、昨日非合法に突然帰国したそうだけど」
知られている。
「なにかあったのか?」
尋問されている。
「あーいや、兵部が寂しいからどうしても帰ってこいって言ったもんで」
皆本は眼鏡をくい、と指で上げた。
「ふむ。午前中に兵部に確認した理由と一致するな」
確認してんのか! しかもカマかけやがって!
実質バベルのトップとなったこの男は、実のところかなり陰険だ。特にヒノミヤに対して。
「兵部に振り回されるのも大概にしろよ」
信じたのかそういうことにしてくれたのか、皆本は去っていった。仕立てのいいスーツの後ろ姿を見送りながら、ヒノミヤはぽつりと呟いた。
あの口実が通るとは、
「おい、兵部。俺ら大概バカップルだと思われてんぞ」

アン兵

Posted by ありす南水