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隠居屋敷。天気は雨。兵部とギリアムの読書時間。
仕事に出ていたヒノミヤが帰ってきた。
門から屋敷まで距離があるため、車から降りたあと濡れた。お手伝いさんから渡されたタオルで頭と服を拭きながら、書斎に入った。
「おや、水も滴るなんとやらだね」
十日ぶりの笑顔の兵部が軽口と共に本を閉じる。今日も綺麗だ。なにより愛しい。
ヒノミヤとしてはただいまのキスをしたいところだが、ここは日本だ。人前ではするなと言われているので、軽く肩を叩くだけにとどめる。
「それ、なに?」
タオルを押さえる左手にギリアムの不思議そうな視線が注がれ、自分の手を改めて見たヒノミヤは、ああ、と呟いた。
「外すの忘れてた」
左手の薬指から抜く指輪を、タオルを受け取ったお手伝いさんも興味津々で覗き込んだ。
この人はパンドラの構成員で、兵部の昔の「クラスメイト」だ。超度はそう高くなく、同じく構成員の夫と結婚後は家庭に入り現在は孫もいるが、兵部がここで暮らすにあたりご指名がかかった。真木たち最初の三人の子どもを育てるときにも、兵部は彼女を頼りにしてアドバイスを受けたとかで、信頼と同時に気安いらしい。
「結婚指輪! 兵部くん、これ、兵部くんが贈ったの?」
ここで働くにあたり、彼女は最初兵部を少佐と呼んだが、引退したから別の呼び方をと言われ、じゃあ昔みたいに兵部くんて呼ぶわ、ということになった。
「いいや、初めて見るな」
ヒノミヤの手から指輪が消え、次の瞬間兵部がそれを摘まんでいた。
「俺が自分で買った。仕事のときだけつけてんだよ」
「あら、まあ、どうして」
「え、まあ、いろいろめんどくさくて」
お手伝いさん、というか、兵部の友人のようなものだ、に対して若干言い訳めいてしまう。兵部はにやにやしていた。
「既婚者です、とアピールしないと困るほど、誘われるわけだ」
「違うって」
実はそうなのだが。誰と暮らしているか公に出来ないので曖昧に答えると、可能性があると受け取る自信家が結構いる。その点指輪をしていると、左手を見せるだけで面倒を回避してくれる。
お手伝いさんから結婚指輪の意味を聞いて、ギリアムが首を傾げた。
「兵部はヒノミヤと結婚してるのか?」
坊ちゃんに下手に答えるとどういう結果が待っているかわからない。兵部は少しだけ考える様子を見せたが、すぐに笑みを作った。
「ま、そういうことだね」
「兵部はヒノミヤが好きなのか?」
「うん」
「どこが?」
「タフなとこ」
これはこの質問に対する兵部のデフォルトの答えだとヒノミヤは知っている。パンドラメンバーのほぼ全員が、ヒノミヤと暮らすと兵部が言い出したときに聞いた。ヒノミヤなんかのどこがいいの?
「ヒノミヤは? 兵部のどこが好き?」
珍しい質問をされた。ヒノミヤなんかが少佐を好きになる理由は、わりとみんな思いつく上に興味がない。
「え? 全部」
考えていなかった分、素で答えてしまった。兵部は顔を背け、口元を手で覆った。妙な間が空く。
「ギリアム坊ちゃん。お茶の用意を手伝ってくれますか?」
「うん。いいよ」
お手伝いさんがギリアムを連れて行ってくれた。ヒノミヤは書斎に兵部と取り残される。兵部はまだ俯いていた。耳が赤い。
え、なんだろう。そんなに恥ずかしくなる場面だろうか、ここは。昔の日本人は無茶苦茶シャイだったそうだが、最近はそうでもない。…兵部は昔の日本人だった。
「…コロス」
「おまえの照れ隠し物騒すぎ」
ヒノミヤが顔を近づけると、念動力で押し返された。
「ここではダメだ。ルールは守れ」
「じゃあ、今晩」
兵部は赤いままの顔でヒノミヤを睨んだが、ダメとは言わなかった。