(6)
月が綺麗ですね
兵部が一線から退いたあとの隠れ家、通称隠居屋敷。
通いで家事をしに来る人以外暮らすのは兵部ともうひとり、それから月の半分くらい滞在するヒノミヤだけ。だからついうっかりした。
月が綺麗だの、おまえの方が綺麗だの言っているうちに盛り上がってきて、外界と完全に遮断してある離れに行く前にキスしてしまった。
そこを見られた。
この家のもうひとりの住人。元黒い幽霊のギリアム坊ちゃんに。
「で?」
緊急呼び出しをくらった賢木は、面目ないと頭を下げるヒノミヤを前に不機嫌を顕にした。
「お坊ちゃんに精通が来た、と」
テーブルを挟んで向かい合うヒノミヤは、大きな体を可能な限り小さくしている。
特殊な、というか異常な環境で生育したギリアムは年齢に比べて発育が悪い、というか偏っている。
高い知能とアンバランスに、男として肉体はまだ子どもだ。知識も与えられておらず、興味も持たないよう教育されていた。
「そこのところはまあゆっくり適合させればいいだろうと、そういう話だったよなあ、確か」
「…その通り」
ところがヒノミヤと兵部のキス現場を目撃したその次の朝、ギリアムは下着を汚した。
普通そういうことは他の人間にはわからないものなのだが、知識のなかったギリアムが大騒ぎしたため、ヒノミヤも知ることとなった。
「で、兵部は?」
「…席を外させてる。あいつが入るとややこしくなる」
「嫌な予感しかしないが、一応聞こうか。なぜだ」
「ギリアムは兵部の夢を見て夢精したらしい」
一枚木の上質のテーブルの表面を、賢木は爪で引っ掻いた。
「現象の説明も兵部がしようとして、なんか変な雰囲気になりかけたから止めた」
「兵部はわざとか…?」
「多分天然」
賢木の反対側の手もテーブルを引っ掻いた。
兵部は大人と子どもをはっきり区別するので、ギリアムは子どもに分類しているのだろう。しかもギリアムは保護観察中のようなものだ。一人前にカウントしていない。
「…で?」
賢木は最初の一声に戻した。
「俺にどうしろと?」
「とりあえず医者の立場から坊ちゃんに説明を。それと」
どうしたらいい? と聞かれて、賢木は頭を抱えた。
バベル所有の某事務所。
「思ったよりは落ち着いてるから、早急に教育しよう」
賢木からの報告を受けて、皆本は眉間に皺を寄せた。
「誰がやるんだ、その教育」
「…俺?」
手を上げた賢木はすごく適任ではない気がして、皆本はヒノミヤに八つ当たりした。
「子どもの前でいちゃつくなよ」
「いや、十分夜中で一応寝たのを確認してからだったんだけどな。つか、あれ、子どもか?」
ヒノミヤはヒノミヤで開き直っていた。
皆本がヒノミヤに初めて会った頃、彼はまだ半端者の印象が強かったが、その後驚くほど変わった。あれから何年も経つが、パンドラに属さずいまだ兵部の側にいる。しかも戦後、兵部が隠しもしなくなった男の恋人だ。
指で眼鏡をくいと引き上げて、皆本は仕切り直した。
「暴走する危険性を考えると、彼は他のところには移せないんだ。もっと注意して接してもらわないと困る」
返事をしたのはヒノミヤではなかった。
「してるさ」
透る声がして、兵部が現れた。テレポートだ。
最近の兵部は白や生成りの服を好んで着ている。髪と肌の色も浅いので、こういうふうに宙から降るように姿を見せると天使のようだ。
と、思ってしまった自分に皆本は内心で舌打ちした。
「お坊ちゃんのことは任せておいてもらいたいな。ヤブ医者、おまえもサイコメトリで不穏なものは感じなかっただろ?」
話を振られて賢木は顔を顰めた。
「不穏じゃないっつーか、なんつーかファンタジーだった」
「なんだ、それは。おい、兵部」
皆本は割って入った。賢木は駄目だ。すぐ兵部に共感する。
ギリアムは以前兵部に執着して追い回した。殺そうとして。
人格の一部を崩壊させることによって、兵部はギリアムを偏った思想から解放したのだ。根本から変わったわけではない。
「皆本、おまえ、白髪増えたなあ。けどよかったな。早く白髪になるなら禿げないぜ」
「僕の髪の毛の心配はしてくれなくて結構だ! そんなことより、おまえちゃんと考えてるんだろうな! いつものノープランじゃないだろうな!」
「ヤバイと思ったら殺す」
兵部は笑顔のまま氷のように言った。
「ノーマルの出る幕じゃないんだよ、じゃあな」
兵部は一度も床に足をつけることなく消えた。
ヒノミヤもいなくなっていた。
「おい、兵部!」
どこかの空に出たところで、ヒノミヤは兵部の腕を掴んだ。
「おまえ!」
「なんの心配をしてるんだ、君は。僕が坊やに押し倒されるとでも思っているのか?」
兵部に向き合って、ヒノミヤは口籠った。
「おまえなら、坊やに跨りそうだけどな」
物理法則に則って、ヒノミヤは腹を蹴られた。
「謝罪を要求する」
「俺の方が謝ってもらいてえよ」
からだを折ったヒノミヤは、だが謝った。
「けどおまえは時々情に流される」
「情ってなんだよ。心配じゃなくて嫉妬か」
「否定はしない」
兵部の残された時間はすべて坊ちゃんに約束されているし、それは承知していることだが、思うことはある。特に坊ちゃんの兵部に対する執着を目の当たりにしたときに。
兵部は小さく溜息をついた。
「君が思っているより、僕は身持ちが固いんだけどな」
「はあ? なんだって?」
「言い直そう。君が思うより、僕は君のものなんだよ」
ヒノミヤの右手が掴まれて、兵部の左胸の上に置かれた。
「嘘臭い…」
「なんだって?」
「なんでも! わかったよ、わかりました! 好きにすればいいだろ、俺はなにも言わねえよ!」
ありがとう、と兵部はにこりともせず言った。
病気ではないとドクターにも説明を受けたが、ギリアムはベッドで寝ていた。
正確には布団を被って目を閉じていた。
そんなことをすれば余計にあの光景が浮かんでくるのに。
月の綺麗な晩だった。だからふらふらと庭に出たのだ。
庭には兵部とヒノミヤがいた。
なにか話していたがギリアムには聞こえなかった。
二人は仲がいい。いつも他愛ないことを話しては笑ったり怒ったりしている。
するとヒノミヤが兵部の方にからだを傾けた。
顔を近づけ、口を重ねる。
そんなことをしたら兵部が怒るとギリアムは思った。
だが兵部は怒らなかった。
右手をヒノミヤの首のうしろにまわし、より自分の方に引き寄せた。
キスをしているのだと、ようやくギリアムは理解した。
兵部は男で、ヒノミヤも男なのに。
驚いて音を立ててしまい、二人が振り向いた。
ヒノミヤは慌てていたが、兵部は普通だった。
「もう遅いよ。早くおやすみ」
月の光に包まれて、兵部はそう言った。
その夜、兵部の夢を見た。
人の声がした気がして庭に出た。
真っ直ぐ進めばこの間兵部とヒノミヤがいた池の方。
だが今日はふたりは空にいた。
見上げたギリアムに気づいた兵部が小さく手を振ってくれた。
「ほら、君も振ってあげなよ。ヒノミヤは僕のことが嫌いなのかな、って気にしてたよ、彼」
「嫌いも好きもねえだろ」
ギリアムは世界を憎悪に包みかけ、兵部を血塗れにして殺しかけた。
「昔のことさ」
「おまえのエスパーに対してだけの博愛主義だけは、尊敬に値するよ」
無感動な声でヒノミヤは言うと、見上げる哀れな青年に手を振った。
中秋の名月。
「お招きありがとう」
庭に縁台を出して月見をしようと兵部が言い出し、ユウギリと悠理が招待された。
二人とも浴衣を着ている。招待状と一緒に送られてきたそうで、いかにも兵部らしい。
「アンディは着てないのね?」
ユウギリが問う。
「俺はそれ、裾捌きが苦手で」
着丈も身幅も大きいので特注になるし、そこまでして着たいとは思わない。
「ユウギリはまた美人になったなあ。彼氏出来たか?」
きっ、とヒノミヤは睨まれた。
「アンディ、私はアンディを少佐にとられたハートブレイクから、まだ立ち直ってないの!」
「あ、そう。ははは。その減らず口、立派なパンドラの子になったなあ」
ぷう、と膨れたユウギリは、ヒノミヤにとっては五歳の女の子のままだった。
袖をひらひらさせて現れたユウギリと悠理に、兵部は目を細めた。
兵部は浴衣が板についたものだし、ギリアムも兵部に綺麗に着付けてもらっていた。
「お久しぶりです、お兄様」
ユーリが縁台に腰掛けたギリアムの前に立った。
ギリアムは首を傾げる。誰だか思い出せないのだ。
「悠理です。お兄様の妹」
「いもうと?」
悠理は泣きそうな顔で、でも微笑んだ。
「お兄様。月が綺麗ですね」
ギリアムが隣に座る兵部を見ると、兵部は頷いた。
それで安心したのか、また悠理に向かい合った。
「月が綺麗だね、ユーリ」