(1)
告白日和
1
賑わうオープンカフェの片隅。
兵部はカフェオレを飲みながら、宙に浮かせた文庫本を読んでいた。甘すぎず物足りなさすぎず。この店の砂糖の加減を気に入っている。
「よう。久し振り」
テーブルの端に手を置かれて挨拶された。目を上げると、知らぬわけでもない男がいる。
「ヒノミヤ」
名を呼ぶと嬉しそうに笑った。音を立てて椅子を引っ張り勝手に相席する。
「ひとりか? なにやってんだ、こんなことで」
さらに勝手に文庫本に手を伸ばして閉じて、テーブルに置く。
「暇を潰している」
「暇なのか?」
「真木が僕に小言を言おうという気を失うまでは」
真木さん、気の毒、とヒノミヤは小さく呟いた。
「君はなにをしてるんだ」
「歩いてたらおまえを見つけた」
ちょっと変な顔をしただろう。このテーブルはヒュプノで見えなくしてある。手を伸ばしてヒノミヤの眼帯の紐を解いた。
「あ、おい」
左目はまだ輝きを失ったままだ。
「無効化の力じゃねえよ。いや、でもまあこの目のせいかな。おまえが近くにいるのがわかった」
「ふうん」
指に紐を巻きつけてくるくる回す。
「何年ぶりだっけ。君、カッコ良くなったねえ」
「三年。そりゃどうも」
面と向かって言われても余裕がある。
若い子はあっという間に成長するなと、感慨なのか寂しいのか。
カタストロフィ号には時々来ていて、他のメンバーどころかあの頃いなかった子達とも親しくなっているそうだが、どういうわけか兵部の不在時ばかりだ。
「財団とやらでもご活躍だそうで」
パンドラを離れてノーマルの創設した組織に落ち着いたことを、兵部は心良く思っていない。だが真木達がヒノミヤを通して、情報を流したり得たりしていることには、知らないふりをしている。
「おかげさんで」
眼帯ごと手を握られた。次に顔が近づいてきた。
「……? 野良犬に顔を舐められた!」
「違うだろ!」
確かに違う。マウスツーマウスでキスをされた。ヒノミヤに!
「なにをする」
「え? してもよさそうな空気かなって」
「どこにそんな空気が流れていた」
などとやりとりしているあいだも、手は握られたままだ。
もしかして眼帯を返さないのがよくないのかと離してみたが、手は離されない。なぜだ。
「兵部」
そう言えば敵ではないのに兵部を呼び捨てにするのはヒノミヤだけだった。
「好きだ」
「……」
突然の告白に固まった。
「兵部」
「待て。聞こえている」
雛の巣立ちを見送った親鳥みたいな気持ちになっていたのに、雛が戻ってきて好きとか言い出した。
…この雛、猛禽類みたいな目をしているな。
「ちょっと、君の母国語で言い直してみてくれ」
パンドラの公用語は日本語で、ヒノミヤも兵部と話すときは日本語だ。ヒノミヤは英語に次いで仏語、独語で言い直した。全部意味は同じだったので、誤用ではなかったらしい。
「君、男がよくなったのかい?」
「いや、兵部がいい」
「あ、そう。僕の方は君が男だという時点で除外だな」
「でも、昔あんたと付き合ってたって男と会ったぜ」
こめかみがピクリと反応した。
「へえ、誰かな。その口の軽い馬鹿は」
「さ、さあ、誰だったかな」
ヒノミヤのネットワークで会えて、且つ兵部が昔関係を持った相手。
おおよそ検討をつけて、立ち上がる。まだ握られていた手が邪魔でバランスを崩した。
「離せ。ちょっと殺しに行ってくる」
「そんなん聞いて離せないだろ。あちらさん、若き日の美しい恋人の思い出を俺に自慢しただけだから」
「誰が恋人だ」
「え? 違うのか?」
「僕は恋なんかしたことはない」
ヒノミヤは両手で兵部の手を握り締めた。痛い。
「じゃあ俺としよう」
つくづく斜め上を攻めてくる男だと、兵部は思った。
「そうすると必然的に俺がおまえの最初で最後の恋人になるだろう?」
失礼なヤツだ。無礼というべきか。
兵部はまた座った。
「君、いつから僕を好きなのさ」
パンドラにいたときはそんなことはなかったはずだ。
「自覚したのは二年くらい前に、エロい夢におまえが出てきたときだけど」
「うわ」
「ああ、俺、兵部が好きなんだなと」
「たまってただけだろ」
「欲求不満でおまえが相手の夢を見るなら、おまえが欲しいってことだろ」
気恥ずかしくなってきた。
若い。若すぎる。直球勝負は捻くれた老人には辛い。
「兵部」
まだ手は握られている。
「もしかして僕は返事をしなくてはいけないのか」
じっと見つめられる。
断られるのも覚悟している目だ。
ヒノミヤの潔さは元々気に入っている。
「保留」
「え?」
「だから保留だよ。次会ったときに答える」
「いつ。何月何日何時にどこで」
「…いーじゃん、また偶然を待つってことで」
不誠実を詰る眼差しに負けた。
日時と場所を約束した。
とあるパンドラ関連企業の会長室。
「やっぱり君か」
牛革張りのやたらふかふかしたソファに、学ラン姿の兵部がふんぞり返っていた。
「やめてくれないかな、純な若人を焚きつけるのは」
会長自らがサーバーからコーヒーを淹れて、カップを差し出す。
「その様子ではプロポーズされましたか」
「告白された」
「おお。で、少佐はなんと?」
「答えてないよ」
「お付き合いなさればいいではないですか」
兵部は足を組んだまま、さらにソファにからだを沈めた。
「僕だって多少は恥というものを知ってるんだよ。たとえて言うなら君が女子中学生と付き合うようなものじゃないか。それを恥と言わずしてなんと言おう」
「私には妻も子も孫もいるので論外ですが、それにその設定はいろいろ難しいところがありますが、彼は成人で少佐は独り身ですよ。それに美しい」
笑い皺を寄せて微笑まれる。
この男はかつて兵部が謎の転校生としてパンドラに勧誘した人物だ。能力は飛び抜けたものではないが、商才に長け、パンドラを資金面で支える企業を作り上げた。
兵部はこの男と関係を持っていたことがあるが、ほかの多くの男同様ほんの一時のことだ。彼はどう思っているのか知らないが、兵部は恋などしたことがないし、誰かの恋人になったことはない。女性より男性相手の経験が多いのも、女はすぐ子どもを産みたがることに比較的早くに気づいたことと、寝ることによって益になる相手は男が多かった、それだけのことだ。
とはいえ、兵部はこの男が嫌いではない。
「他人事だと思ってさ」
「いやいや。兵部少佐のことが他人事であるはずがありません。彼はパンドラの思いが叶うときまで見届けるというようなことを言ったそうですが」
「それ、なんで広まってんの」
「旧カタストロフィ号が沈んだ経緯の説明を受けたときに、真木くんが」
真木め…と思うが、別に真木に責任はない。
あわやという事態のあとに、真木がスボンサーに説明するのは当然のことだ。
直接の原因であったヒノミヤを悪者にしないように、数時間かけて四苦八苦のやりとりをしている最中、兵部が回線に割り込んできて、
「ヘマしちゃった。ごめんね、みんな」
と片目をつむって言ったら、それで全員納得した。あいつら少佐の顔を見たかっただけなんじゃないのか、と真木が毒づいたというのは、紅葉と葉しか知らない話だ。
「パンドラの思いとはすなわち、兵部少佐が幸せになることですよ」
「は?」
「いやいや、なにも仰るな。無論兵部少佐の思いが同胞が安心して暮らせる世界を築くことと、クィーンをパンドラに迎えることであることは承知しています。それを含めて、パンドラの思いは少佐のお幸せです」
兵部がどうコメントすべきか考えているあいだに、さらに続いた。
「ですからこのへんで恋人でもお作りになられてはいかがでしょう」
みなには黙っておりますので。
ほんとかよ、と兵部は呟いた。
約束の場所、と時間は随分前。
雨が降ってきた。
ヒノミヤは掌で雨粒を受け止めた。
「このあと天気は大荒れの予報だよ」
目の前にふわりと兵部が現れた。
「一分でも遅れたら、おまえ帰るだろ」
「だからと言って一時間も早く来ることはない」
大粒の雨がヒノミヤのジャケットの肩の色を、瞬く間に変えていく。ほら、と差し出された手を取ると、次の瞬間には別の場所にいた。
ホテルのロビーだ、と認識して横を見ると、白いボディコンシャスなスーツに身を包み、大きなつばの白い帽子を被った女が隣にいた。ヒュプノだが、容姿はほとんど兵部のままだ。
フロントに呼びつけられた支配人は最初怪訝そうだったが、兵部がカードを差し出すと、はっとして、恭しく頭を下げた。
案内されたのは最上階の特別室だ。
「ここもパンドラの資本なのか」
町の中心部にそびえ立つ高級ホテル。
「そのヒュプノ、そろそろ解いてくんないかな」
ヒノミヤの腕に手をひっかけていた有閑マダム風兵部は、赤い唇を笑みの形にした。
「このままでは?」
「いや、俺が好きなのは兵部京介なんで」
「こーの、変態さん」
パチンと指が鳴らされて、学ラン姿の兵部が現れた。
「んー、じゃあさ、とりあえず、してみる?」
「なに?」
「そしたら満足するかもしれないじゃん。恋人みたいなややこしいものにならなくても」
兵部の妙に高いテンションの理由が知れたが、そんなことでこの気持ちをうやむやにされるつもりはない。
「おまえの返事を先に聞く。断られたら帰る」
兵部は顔を顰めた。
「めんどくさいヤツだな」
はあ、と兵部がらしくない溜息をつく。
「わかった。いいよ。じゃあ恋人としてしよう」
「いや、しよう、から一旦離れてくれないか。俺は別におまえのからだ目当てじゃねえよ」
わざとらしくまばたきされる。そうすると瞳が強調されて、可愛く見えることを知っている。あざとい。
「じゃあプラトニックにおつきあ」
「そういう意味でもない。わかってて言うな。とにかく茶化すな」
「熱いなあ。そんな情熱はすぐ冷めるって」
「冷めるまで付き合ってくれ」
「老い先短い身を弄ぶつもりか」
「介護まで責任取る!」
「うわ」
言葉遊びに追い詰められて、兵部は黙った。
「ここまでぐだぐだ言うってことは、おまえもNOじゃないんだよな」
テレポートで逃げられないように肩を掴んだ。兵部は視線を彷徨わせた。
「…僕に巻き込まれたら、おまえに二度と平穏なんかないんだぞ」
「わかってる」
「家族じゃないから保護の対象じゃないし」
「わかってる」
「じゃあ恋人にしてやる」
力一杯抱きしめた。
「ヒノ、ミヤッ、痛いっ…! みしっていった! 背骨がっ!」
「あ」
離すと、息も詰まったのかけほけほ咳き込む。
「悪い。加減がわからなくて。おまえ、筋肉ついてるけど、思ったより華奢」
ヒノミヤの腹筋に兵部の体重の乗った右拳がめり込んだ。息が詰まり、絨毯の敷かれた床に片膝をつく。
「まあ、能力を使わない生身の僕の力はこの程度のものだ」
「そ、そうですか」
「ああ、そうだ。粗忽者のきみに言っておくけど、僕は二十年くらい? 清いからだなので処女みたいなものだ。大切に扱ってくれたまえ」
「はあ?」
「なんだよ、その目は」
「さっきからやるだのやらないだのと言っていた同じ口がなにを言い出したかと」
「本当だぜ? 真木達を拾った頃から生活が変わったんだ。途中で収監されてたし、その後はクイーン達と遊ぶのに忙しかったし、そんなことしてる暇がなかった」
元々そんなに好きな行為でもなかったし、とトーンを下げたあと、兵部はうずくまったままのヒノミヤに顔を近づけてきた。
「お風呂入ろうよ」
「言動に一貫性がねえな」
「いーじゃん。おまえ、少し濡れたし」
テレポート前に水滴を弾かれたので、乾いている髪を指で掬い上げられる。こっち、と腕を引っ張られた。
五人くらい入れそうなバスタブがあった。湯は既に張られていて、バラの花びらが撒かれている。
「はい、じゃあ脱がしっこしよう」
どこの世界にこんなヴァージンが、とヒノミヤは思ったが、兵部は演じてるふうでもなく楽しそうだった。
結構なことだ。
こういう様子が見たくて、ヒノミヤは兵部の恋人になりたいと思ったのだ。
脱がしっこ、という表現はアレだったが、行為はなかなか刺激的だった。
「もうちょっと遠慮して見てくれないか」
上半身を脱がせた状態であまりにじっと見ていたら、顔を顰められた。
「見たことあるだろ」
ある。USEIに殴り込みをかけるとき、日本から合衆国までノーマルのような行程で移動したので、当然宿にも泊まった。だがあの頃はまったく自覚がなかったので、シャワーのあとの兵部に対し、細いと思った以外なにも思わなかった。
「なにか言えよ」
「すごくきれいだ」
「…そういうことではなくて」
「宗教画みたいだ」
兵部は薄く笑った。
「堕天使?」
そうであってもかまわないのに、天の門が開かれないことが兵部にとってはたまらなく辛いのだ。
服に妨げられない接触で、兵部の低い体温に自分の体温を移した。上を向かせて唇を貪る。薄い唇。薄い舌。整然と並んだ歯。息継ぎ出来るように加減すると、襟足を引っ張られた。
伏せられた睫毛。僅かに寄せられた眉。キスの合間にズボンを脱がせ、同じように兵部もヒノミヤの衣服を剥ぎ取った。
「あ」
ヒノミヤが突然止まった。
「なんだ」
「ゴム、忘れた」
兵部が白けたような表情になる。
「いや! 返事どうかわからないのに! 持ってくるとかないだろ!」
「どこでなにが起こるかわからないから、携帯してるのが正解だと思うが」
「…え、いや、俺、そういうのはないから!」
「という油断が、思わぬ結果を招いて一生を差し出すはめになる」
「いや、ない! 今までもこれからもない! …おまえ、そういうのアリなの?」
「ないな」
「…俺がよそでそういうことするのは」
「死にたいんだな、と解釈するよ」
すごく綺麗な笑顔を見ることが出来た。
「…だから、ないって。じゃなくて、ここ、備え付けてないかな」
「フロントに言えば持って来てくれるだろうが、そんなことをしたら殺す」
「あ、はい、ですよね。じゃあ、おまえ、能力で取ってき」
兵部の手がヒノミヤの口を塞いだ。
「君がとてもマナーを心得ている男だということはよくわかったが、セーフティという意味においては心配ないから、なくても僕は構わない」
ぱちくり、とヒノミヤは瞬きした。
「それは、なかで出していいってことか? それともなかで出すなってこと?」
「お好きにどうぞ」
思わず喉が鳴った。
「…笑うなよ」
兵部もこらえようとしているが、押さえきれずに笑いが漏れている。
大理石の壁に背中を押しつけ、キスをする。鎖骨の窪みに舌を這わせ、歯を立てても、兵部はまだ笑っていた。
唇の位置を段々落としていき、床に膝をついて太股の裏側に吸い付く。さらにすぐ近くで存在を主張しているものを口に含んだ。
兵部の手がヒノミヤの髪の毛を掻きまわす。
気持ち良くさせてやりたい。セックスは好きじゃないと言っていたが、俺とするのは好きにさせたい。
俺を好きになってほしい。
荒々しくなるのを必死に押さえつけている愛撫に、頭がくらくらしてきた。
能力は戻っていないらしいが、ヒノミヤの思考は読み辛い。それなのに触れている部分から持て余すほどの感情が伝わってくる。
セックスは嫌いと言ったが、ちょっと嘘で、そのときは愉しい。ただあとになにも残らない。空っぽになるだけだ。けれどヒノミヤはどんどん感情を流し込んできて、虚ろになる暇をくれない。
僕の元に残らなかったくせに、僕のことを少佐と呼ばないくせに、僕のことを好きだとか、どうかしている。
一瞬だけ意識を手放して目を開けると、ヒノミヤが顔を覗き込んでいた。
瞬きすると、ほっとした顔になる。
満たされている。なにに? なにかに。
これは困ったかもしれない。憎しみこそが僕だったのに。
本当はとっくに存在があやふやになっていたのだけれど。早乙女を殺さなかったあのときから。
「兵部、大丈夫か?」
僕の前髪を掌で上げて顔を近づけてくる。
僕は楽しくなってきた。これからは憎しみに変わってこの感情が僕を支配するだろう。だから言った。
「ばーか」