年下の恋人
上がっていきなよという鳳に、いえ、ここで結構です、と月皇は答えた。
「早く戻らないと天花寺が先にうちに着いてしまうので」
鳳は月皇のうしろに立つ空閑に声をかけた。
「大丈夫? 生きてる?」
「もうすぐ死にそうですが、今はなんとか」
空閑は瞳から輝きを失っていた。
ここは鳳のマンションの玄関口で、月皇、空閑と共に学校から帰ってきた星谷は今、月皇のマンションで泊まり込みの勉強会をするための支度をしている。
ことの始まりは、今日偶然月皇たちの耳に入った星谷への悪口だった。
星谷は構内SNSをほとんど見ないのだが、よりにもよって天花寺が見てしまった。
星谷悠太って歴代華桜会で一番成績悪いんじゃねーの?
実技ではなく、学科のことだ。
そのことを教えられた星谷が、
「あ、そっか、そうかも」
と笑ったのも、天花寺の短気に火をつけた。
「おまえが馬鹿にされるのは華桜会、引いては三年MS組、引いてはteam鳳が馬鹿にされるのと同じことだ! おこれ! いかれ! 見返してやれ!」
華桜館の執務室で、星谷の襟首を掴んで怒鳴った。
「そんな大袈裟な。もう進路も決まったし、赤点取らなければオレはそれでいいよー」
「はあーっ? そういうときにビシッといい点取るのが粋ってもんだろうが!」
「ええー?」
助けを求めて星谷が視線をさまよわせた先には月皇がいた。
「月皇、なんとか言ってー」
自分の携帯端末で構内SNSを見ていた月皇は、ゆっくりと顔を上げた。
「星谷。有終の美を飾るぞ」
星谷の呑気な顔が、このとき初めて引きつった。
「おまえの言うように、三年最後のテストに重大な意味はない。だがだからこそ、これまでの上位陣にも隙がある。これはチャンスだ」
「上位陣って、月皇とか天花寺とか申渡とか虎石だよね? 全然隙ないよね?」
雲行きの怪しさに気づいた星谷は那雪に同意を求めたが、那雪も険しい顔をしていた。
「星谷くん。ぼくは星谷くんを信じているよ」
「え?」
「そうだ。月皇くんのところで泊まり込みで勉強会はどう? ぼく、食事面で全面サポートするよ」
「いい、アイデアだ、那雪。空閑、おまえも来い」
円卓に突っ伏して寝ていた空閑は、月皇に呼びかけられてぼんやりと顔を上げた。
「おまえも最後に本気を見せろ。星谷が辞退した推薦で大学入学は決まっているから、テストに集中できるだろう」
いや、俺は、と言いかけた空閑を月皇は睨みつけた。
「ま、待って。そんなみんなを巻き込んでまで」
「ああ? この三年間、テストのたびに俺か那雪に教えてもらっていて、今更巻き込むもなにもあるかってんだ、野暮助」
最後の抵抗を試みようとする星谷だったが、あえなく天花寺にやり込められた。
「そ、そうだけどー。いいじゃん、誰だかわからないヤツの悪口なんかまともに取り合わなくても」
天花寺が感情的になにか言おうとするのを、月皇が制した。
「星谷。おまえは俺たちの誰かが馬鹿にされたら本気で怒る。なのに自分のこととなるとまったく平気だ。だから俺たちはおまえの代わりに怒る。おまえは友達で、おれたちのリーダーだからだ」
天花寺と那雪が頷く。空閑も少し考えてから、遅れて頷いた。
「みんな……」
星谷は目を潤ませた。
「もともと天花寺は試験期間中は仕事を入れていなかったんですが、俺のところに泊まるために一旦自宅に帰っています。那雪もみんなの分の弁当を作ってから来ます。空閑は逃げるといけないので、このあと三人で一緒に家まで行って用意させます」
理路整然と話す月皇は、空閑の制服の袖口をずっと掴んでいる。空閑は何度か逃亡を図って失敗したのだろうと、鳳は察した。
「空閑ー、とばっちりでごめんよー」
私服に着替えて半泣きの星谷が、荷物を持って現れた。
「気にすんな。あの書き込みしたヤツ。卒業までに見つけて必ずシメる」
「卒業できなくなるから事件はやめてー。月皇もごめんよー。オレの頭が悪いばっかりにー」
「大丈夫だ。おまえはやればできると俺は信じている」
「嬉しいけど重いー」
「これは言いたくなかったが、おまえが本気になれるなら伝えておこう」
月皇は一息吸ってから星谷を見据えた。
「おまえが馬鹿にされるのは華桜会、引いては三年MS組、引いてはteam鳳が馬鹿にされるのと同じこと。そして、team鳳が馬鹿にされるということは、鳳先輩が馬鹿にされるということだ」
星谷は衝撃を受けた。
「え、ええっ」
うろたえた星谷に顔を見られ、鳳は手を振った。
「俺のことは気にしなくていいから」
「でも、オレは! オレのせいで! 鳳先輩がなんか言われたりするのは嫌です!」
「うん、卒業して二年も経つし、絶対ない」
「オレ! 頑張ってきます!」
「あ、うん、まあいいけど。しっかりね」
「それでは鳳先輩。テストが終わるまで星谷を預かります」
まんまと月皇の煽りに乗った星谷は出かけていった。
テスト最終日。
大学の実習で遅くなった鳳は、心持ち急ぎ足で帰宅した。星谷はとっくに帰っているはずだった。
玄関ドアを開けて靴を脱ぎ、明かりをつけようとしてなにかを踏んだ。
「え? あ、星谷っ? ごめんっ、思いっきり踏んじゃった!」
学校指定のコートの下に燕尾を着たまま、星谷が玄関で行き倒れていた。
「おまえ、いつからここにいるの」
踏まれてなお星谷は寝続けていた。
手遅れのような気もしたが、風邪を引いてはいけないのでリビングまで引きずって暖房を入れた。毛布をかけるついでに額を撫でると、無邪気な寝顔があらわになる。
テストの結果はどうだったのだろう。ここまで頑張ったならそこそこは行けたのだろうか。
卒業直前の今頃になって、恋人は年下の高校生なのだと意識した。
「いいねえ。たまにはこういうのも」
つぶやいて、おでこにキスした。