夢の階段
休日に学園祭を見てきたと言う生徒を前に、教師は絶句した。
聞こえなかったのかと思ったのか、受け持ちクラスの生徒、星谷悠太は繰り返した。
「オレ、綾薙学園に行く!」
いや、待て。そんなつもりではなかった。
高校進学に現実感のない生徒にやる気を出させようと、ただそこに綾薙のパンフレットがあったから見せただけだ。
過去、この中学から綾薙に進んだ生徒はいない。
ここでなくとも公立中学から綾薙に進学する生徒は少ない。
あそこは音楽エリートを養成する特殊な学校で、その上偏差値が高いからだ。
「あのな、星谷。言いにくいがおまえの成績では」
「勉強する!」
「勉強って、おまえ」
「今から一生懸命勉強する!」
「学業だけじゃない。あそこは実技の試験も。いや、俺もよくは知らないが」
「オレ、頑張る!」
瞳をキラキラさせて頬を紅潮させる星谷は、学園祭でなにを見たのか。
過ぎた夢を見させたことに、教師は激しい罪悪感を覚えた。
***
「それは綾薙学園の校章ですか?」
連絡事項を伝えに音楽室に入った教師は、ピアノの上に置かれていたパンフレットに目を留めた。
「あら、先生。綾薙をご存知?」
年配の音楽教師は微笑んだ。
「前任校の受け持ちだった生徒で、そこに進んだ子がいて」
「まあ、すごい。先生の前任校って確か普通校でしたよね?」
「そうなんですよ。音楽教育とは無縁の普通の子で、絶対無理だから諦めろと何度も言ったんですが、結局滑り止めなしで受験して」
「受かったんですか。よかったですね」
「ええ。本当に」
音楽教師はパンフレットを手に取った。
「これは夏休みに行われた卒業記念公演のものです」
「卒業記念を夏休みに?」
「そういう伝統なんです。ミュージカル学科の卒業したての生徒と、二学年下の生徒が共演するんです。毎年同じ演目なんですけど、毎年違う演出で。数年後に有名になる生徒も多くて、知る人ぞ知るレアな舞台なんですよ」
差し出されたパンフレットを教師はパラパラとめくり、思わず大きな声を出した。
「星谷!」
「え?」
「この子です! 俺の生徒! 星谷悠太!」
出演者紹介のページの一番最初に載っていたのは、星谷の写真と名前だった。
「まあ! 彼は今年の主演ですよ!」
「でも確か今まだ二年生」
「今年は主演をするはずだった卒業生が辞退して、代わりに後輩から主演が選ばれたの。異例のことなんですけど、立派に座長を努めていましたよ。瑞々しくて素敵なランバートでした。あ、これは役の名前ね」
そうそう、と音楽教師は携帯端末を取り出して、綾薙学園のホームページが表示された画面を教師に見せた。
今年の綾薙祭の告知だった。
綾薙祭のオープニングセレモニーのチケットを取るのは結構大変で、高校生のパフォーマンスにこれだけの人が集まるのだと、教師は驚きながら綾薙学園に来た。
制服を着る生徒も芸能学校だけあって容姿の整った子が多く、華やかな学校の音楽ホールも立派な作りだった。
ミュージカルは見たことがなかったし、レビューというのがどういうものかもわからないまま、席に着いた。
一番最初が二年生のトップクラスの実力を持つ生徒だと、ほかの観客の雑談から知る。
なぜだかとても緊張した。
幕が上がり、驚いた。ただひたすら驚いた。
レベルが高い。
高校生の文化祭とは思えない。
うろたえているうちに、大きな拍手を受けて一度幕が降りる。
プログラムによると、次が星谷のいる班だった。
卒業記念公演、主演、イクセイワク、などの言葉があちこちから聞こえてきて、星谷、とはっきり名前が聞き取れたときは、自分の名が呼ばれたようにどきりとした。
再び幕が上がり、星谷の姿を認めて息を飲んだ。
見違えるように成長していた。
「先生、オレ、綾薙に行く! 絶対行く!」
その声を思い出した。
ステージ上にいるのは十四人。
贔屓目なのかもしれないが、星谷が中心にいるように見えた。
夢を歌っている。
声を合わせて、気持ちを合わせて。
目の奥が熱くなった。
俺は、何度星谷に諦めろと言っただろう。
「でも、先生。ゼロじゃないよね」
合格する可能性は限りなくゼロに近いと伝えても
「だったらオレ、頑張る!」
星谷はそう言った。
三年は別の教師が担任になったが、星谷の気持ちは変わらず、高校留年させるわけにはいかないと、学年主任が保護者を呼び出した。
生徒に無理なことをそそのかしたと、俺も責められた。
成績は目を見張るほどよくなっていったが、受験の直前まで合格判定はギリギリで、それでも星谷は受験し、合格した。
「先生。オレに綾薙学園を教えてくれてありがとう!」
卒業するとき、星谷はわざわざ俺にそう言いに来た。
よかったな。頑張れよ。
そうは言った。
だが本当は、小さい頃から音楽の英才教育を受けてきた生徒に混じって、やっていけるのだろうかと思っていた。
頑張れよ。と、心から言ってやれなかった。
パフォーマンスが終わり誇らしげな星谷に、夢中で拍手をした。
ごめんな、おまえの夢を心から応援してやれなくて。
ごめんな、それでもおまえは夢の階段を上り続けたんだな。
教師は、拍手し続けた。