Others 6



一歩一歩、地面を踏みしめながら、フラガは彼にしては珍しく緊張を感じた。
進むごとに、マリューに近づいている。
そう思うと、顔が強張った。

今はただ、生きていてほしい。

どうして自分はもっと早く帰って来なかったのか。
思い出したときすぐに帰っていれば、ここの状況がここまで悪化する前に迎えにこられた。
マリューには確かに志があったのだろうが、同時に命の危険のある場所に身を置かねば居た堪れない、必死な思いがあったのだろう。
もしフラガが傍にいたら、まず間違いなくこんな仕事には就いていなかったはずだ。
馬鹿な女だ、と思う。
相変わらず、馬鹿な女だ。
マリューが最後にいたという施設は、既に過ぎた。
一応中を確認したが、無人になってから略奪を受けたのか、建物は荒されていた。
蒸せる暑さに、汗がしたたり、うしろを歩くノイマンの息も荒い。

死なないでくれ。生きてさえいてくれればそれでいい。

最早拒絶が怖いなどと言っている段階ではなかった。
下手をすると、マリューの死体を抱くはめになる。
ようやく辿り着いた、マリューが向かったという施設は、先の施設より酷い有様だった。
建物は原型を留めていない。
入り口付近に服を剥がれた男の死体がひとつ。
中には救助を待っていたと思われる、難民の死体がふたつ。
崩れかけた壁に銃痕がいくつも残っていた。
「支援団体の活動員ですね。
マリューさんは仲間ふたりと一緒に行動しているらしいから、そのうちのひとりでしょうか」
ノイマンが死体の様子を調べる。
「時間が経ってます。
マリューさんたちは昨日中にここに着いているはずですから、着いてすぐ」
「ゲリラに襲われたか」
警戒のためにフラガはマシンガンを構えているが、辺りに人の気配はなかった。
地面には、薬莢がいくつも転がっている。
「ここで襲われて、銃撃戦になった。
ひとりはやられて、残るふたりは逃げた、と。
正面に敵がいるなら、中に入るしかない」
呟きながら、フラガはほとんど壁しかない建物の中に入り、漂う腐臭に眉ひとつ動かさず、元は裏口だったと思しき場所から外に出た。
数メートル先に広がるのは密林だ。
ノイマンが追ってくる。
「ここから先は当てずっぽうだぜ」
「勘を働かせてくださいよ」
ノイマンはフラガより先に一歩を踏み出した。
密林に入ると、考えていたより目印はあった。
所々落ちている薬莢と、逃げる途中に落としたと思われる、通信機や食糧の入ったリュック。ゲリラの死体もあった。
人が通った僅かな痕跡、植物が折れたり踏みしめられた跡を、細心の注意を払って探す。
やがて突然立ち止まったフラガの背に、ノイマンはぶつかりそうになった。
「どうしました?」
「水音がする」
食糧も通信手段を失ったならば、必ず水を確保しようとするはずだ。
歩を早めたフラガのあとに、ノイマンがついていくが、フラガがマシンガンを持ち直したのを見て、同様にした。
理由はすぐに知れた。
男が死んでいる。
銃創はなく、後頭部が陥没していた。
ふたり目の活動員だ。
「ちょっと不自然ですね」
ノイマンが呟く。
血があちこちに飛び散っているのだが、男の血にしては、広範囲に散らばりすぎているし、頭蓋骨陥没でこれほど出血するとは思えない。
よくよく見ると、男の衣服には血で塗れた指の跡がついていた。
「これは」
ノイマンは途中で言葉を切った。
わざわざ言葉にして確かめるまでもなく、誰かが男の生死を確認するために、男の体に触れたのだ。
そしてその誰かの手は血に濡れている。
「こっちにもあるぜ」
フラガは少し離れたところに倒れた、ぼろを着た男の死体を見下ろしていた。
どれが致命傷かわからないほど、全身が血に染まり、すぐ横にナイフが落ちている。
真っ赤になったそれは、地球軍が兵士に支給していた規格品だ。
拾い上げたナイフには、所有者を示す刻印などはない。
だがここまで符号すれば、誰のものだか自ずと知れようというものだ。
血の跡はここから始まっていて、活動員の死体まで辿り着き、さらに別の方向に向かっていた。
大量に出血している。
ノイマンはフラガの横顔から感情を読み取ることは出来なかったが、その無表情が彼の気持ちを表していた。
段々水音が近くなってきて、沢が見えたそのとき、フラガが走り出した。
足音に合わせて水飛沫が上がる。
「少佐!」
ノイマンが思わず、昔のように呼びかけるが、フラガは振り向かず、前屈みになりなにかを覗き込んだ。
水際に倒れているなにか。
「マリュー!」
フラガの腕から零れて流れる茶色の髪。
マリューは銃を片手に持ったまま、上を向いて目を閉じていた。
ぐったりとして顔色は蒼白だ。
手首に触れたフラガは、マリューの胸の上で頭を下げた。
「…よかった。生きてる!」
元の色がわからないほど、服は血で染まっていて、どうやら出血は腹部かららしい。
「止血の用意!」
ノイマンはリュックから医療セットを取り出し、フラガに渡した。
裂けた服のあいだに手を差し入れ、傷口を露にし、消毒液を流しかけると、その刺激にマリューの体が痙攣した。
「マリュー!」
答えるように、まぶたがゆっくり動いた。
最初焦点を結ばなかった瞳は、フラガの顔に向けられると、徐々に光を取り戻した。
「…ムウ?」
色を失った唇が、掠れた声でフラガの名を呼ぶために動いた。
それだけで涙が出そうになって、フラガは無理矢理微笑んだ。
半分濡れたマリューの髪を撫で、それから前髪を掻き揚げるようにして額を撫でる。
「マリュー」
マリューは目を少し細め、フラガを見上げていた。
「…ムウ?」
「ああ」
「…どうして?」
「帰ってきたんだ」
夢か現実か図りかねているのだろう。
マリューは眉をひそめた。
「…ほんとに?」
「ほんとに。寄り道してたら少し遅くなったけど」
痛みを思い出したのか、マリューは小さく呻いて目をぎゅっと閉じた。
フラガが手を握り、気を散らせているあいだに、ノイマンが応急措置を施す。
「もうちょっと我慢しろよ。ちゃんと病院に運ぶから」
頷いたマリューは、自分の体に包帯を巻いている男を見て、首を傾げる。
「…ノイマン?」
ノイマンは顔を上げた。
「お久し振りです。艦長」
「…あなたまで。ムウに付き合わされたの?」
「いえ。自分で来たんです」
「どうして…危ないのに」
「元部下ですからね」
 理屈が通っていないが、ノイマンにはそれが正しい答えで、マリューもそれで納得した。
「悠長に歩いてる場合じゃないですね。
オーブに力を借りましょう。
連絡すれば来てくれることになっています」
手当てを終えると、ノイマンはフラガに言ったが、フラガは周囲を見渡し首を軽く振った。
「空路で来られても、ここじゃ着陸する場所がないし、目印もないから空から見つけることは難しい。
陸路なら待っているよりこちらが動いたほうが早いぜ」
「さっきの施設ならどうです。あそこなら地図で場所を示せますし、着陸出来ませんか?」
「なんで来るかにもよるが、腕のいいパイロットならね」
「その点は心配いりません。通信を入れますから、移動の用意をしてください」
「了解」
ノイマンは通信機を持って電波状態の良い場所に移り、フラガはマリューの体を抱え起こした。
「マリュー。わかるか。少し動くぞ」
「ええ」
腕が宙に浮くと、トリガーにかかっていた指が離れ、銃がマリューの手から離れた。
小さな飛沫と音を立て、水の中に落ちる。
フラガはジャケットを脱いでマリューに着せると、マリューを背中に負った。
彼女の重みと熱に、フラガは自分の心が震えるのを感じた。再び彼女に触れていることへの喜びと、このまま死んでしまうのかもしれないという恐怖。

死なないでくれ。

通信を終えたノイマンが、フラガの分のリュックを肩にかけた。
「一番早い手段でそちらに向かう、とのことです」
オーブではカガリの特命により、いつ入るかわからない連絡を待って、二十四時間体制を取っていたそうだ。
「聞こえたか、マリュー。今からオーブに行くから」
「…みんなに迷惑をかけて」
「気にすることはありませんよ」
強い調子で言ったのは、ノイマンだった。
マリューの謝罪を許さないようなその表情に、フラガは様々な事情をほぼ正確に悟る。
とっくに終わった戦争を、引きずって生きてきたのはマリューだけではないのだ。
「あんまり喋るな。体力を消耗する」
フラガはマリューの体を支える腕に力を入れた。
足場が悪いので、伝えてしまいそうになる振動に注意しながら、出来るだけ早く歩く。
「…ムウ、あのね」
マリューが目を瞑ったまま口を開いた。
「だから喋るなって」
「…あとで聞いてくれる?」
「ああ。いくらでも」
よかった、と呟いて、マリューはまた黙った。
呼吸は浅く、時々フラガの頬に触れる指は冷たかった。
こんなところでゲリラに出くわしたら最後だ。
あと少し。ほんの少し強運が続くようにと、強い意志で願う。
ようやく施設跡まで戻ってきて、しかし念のため敷地には近づかず、辺りの様子を伺った。
ノイマンはマシンガンを構えて警戒しながら、マリューを抱きしめているフラガを見た。
防弾ベストの背中に、マリューの血がついている。
傷口を縫い合わせたわけではないので、止血剤だけでは完全ではない。
出血はまだ続いているようだ。
その気配に一番先に気づいたのは、フラガだった。
空を見上げて顔をしかめると、マリューを抱いたまま立ち上がった。
敷地が見える位置を保ちつつ、数メートルその場から離れる。
「どうしました?」
「来たようだぜ」
怪訝な表情のノイマンも、やがて気づいた。
それは戦闘機が近づいてくる音だ。
マリューも目を開ける。
「…なに?」
「心配ないよ。迎えだ」
若い木々をなぎ倒す風がマリューに直接吹き付けないよう庇いながら、フラガは地面を踏みしめた。
ノイマンが両手を振り上げ、旋回する機体に位置を示す。
「…あなたの機体」
爆音に声など聞こえないが、顔を近づけていたので、マリューの唇の僅かな動きがフラガに伝わった。
ゆっくりと降下してくる白と青のペインティングのその機体は、マリューの言うとおりフラガがかつて搭乗していた戦闘機と同型だが、スカイグラスパーは地球軍の所属で、アークエンジェルの廃艦と同時に失われたはずだ。
ノイマンも意外そうな顔をしている。
「どういうことですかね!」
「俺に聞くなよ!」
怒鳴るノイマンに、フラガも怒鳴り返す。
少なくとも地球軍ではないだろう。
現在の地球軍の主力は、スカイグラスパーの後継機だ。
しかも着陸してはっきりするが、目の機体は汎用機ではなく、フラガが乗っていた専用機だった。
「…やってくれますね、オーブは」
ノイマンが感心したように呟いた。
操縦席から男がひとり、飛び降りてくる。
両手に荷物を抱えているにも関わらず、軽すぎる身のこなしから、コーディネイターだとすぐ知れるが、どこの軍の制服も着ていない。
「マリューさん!」
男は真っ直ぐフラガたちのほうに走ってくる。
「おっさん、マリューさんは大丈夫か!」
フラガの胸に顔を埋めていたマリューは、ゆっくりと頭を動かし、律儀に微笑んだ。
「…ディアッカくん。あなたまで」
その声はさっきよりさらに弱弱しい。
「よかった。意識があるんだな」
だがマリューはまたすぐ目を閉じ、ディアッカは肩にかけていたバッグを、ノイマンに投げた。
「医師が用意した治療キットが入ってる。
ここで出来る限りの処置をして、すぐにオーブへ」
ディアッカはもう片方の手に持っていた毛布を地面に広げ、フラガはその上にマリューが寝かせた。
バッグから取り出された酸素吸引器が、マリューの顔にあてられる。
「燃料は大丈夫なのか」
スカイグラスパーを見上げたフラガが、ディアッカに問いかけた。
「一杯にしてきたけどな。
それでもぎりぎりだ。
おっさん、あんた操縦しな。
まさか動かし方忘れたとか言わないだろうな」
ディアッカは揶揄するように、片方の眉を上げた。
フラガがMIAとされてから、ふたりが会うのは初めてなのだが、再会の挨拶などは一切しない。
フラガが生還を果たしたことは、今ここにいることでわかることだし、ディアッカがなぜオーブからやって来たのかも、今はどうでもいいことだ。
そんなことより、今はマリューを少しでも早く、病院に運ばなければならない。
「微調整はあんたが前に乗ってたときと同じにしてある。
ルートは最短で行け。
一時的に目を瞑ってくれるよう、通過国には話がついているから大丈夫。
領空侵犯したって、撃墜されたりしない」
「よくそんな無茶が通るな」
「地球の国家は、オーブにゃ後ろめたいところがあるからね」
カガリが政治的な根回しをしたのなら、公私混同もいいところだが、構うものかとフラガは思った。
「おまえはどうするんだ。
ノイマンも。もう一度迎えが来るのか」
「いや。俺らは歩いてここを離れる」
それでいーだろ、と声をかけられ、ノイマンは頷いた。
ふたりは危険な地域に取り残されることになる。
「悪いな」
短い言葉に感謝のすべてを込めると、ディアッカはにやりと笑った。
「あんたのためじゃない。マリューさんのため。
それにミリィからも頼まれてんの。
絶対マリューさんを助けてって」

フラガが先に操縦席に乗り込み、ノイマンが抱き上げたマリューの体を受け取った。
うしろに乗せて毛布で体を包み、傷に触らないよう注意して、ベルトで固定する。
痛み止めが効いてきたのか、マリューは眠りかけていた。
ライトのついた計器を見渡し、久し振りのコックピットの感触に、フラガは眠っていた感覚が揺さぶられるのを感じた。
かつて飛ぶことは、彼にとって生きると同義だった。
だがあまりにブランクが長い。
外傷は治ったとはいえ、以前のように機体を操れるかどうか、試していないのでわからない。
もし腕と勘が鈍っているなら、ディアッカに任せたほうがいい。
オーブに着く前に、燃料切れで海に突っ込んだりしては、話にならない。
自分を点検するように、フラガは神経を集中させた。

…いける。

確信するのに、そう時間は必要なかった。
ディアッカがくだけた仕草で敬礼し、フラガも同じように返す。
ノイマンにも同じように。

心から感謝した。
マリューを存在させてくれるあらゆるものに、最大の敬意を払い、フラガは操縦桿を握った。




「さて、間に合うのかね」
機体が消えた空を見上げて、ディアッカが呟いた。
暢気に聞こえるが、危険を承知で紛争地域に飛び込んできたディアッカが、マリューの身を案じていないはずがない。
フラガに機体を託すために、最初から密林を歩くための装備のディアッカを、ノイマンは横目で眺めた。
敵だったのに味方になり、あっという間にアークエンジェルに馴染んだ少年も今は成長し、大人びた印象も見受けられる。
一度はプラントに帰ったが、留学という形でオーブに滞在していることを、ノイマンは知っていた。
ところでよくスカイグラスパーが残っていたな」
ノイマンが言うと、ディアッカは口の端を上げた。
「アークエンジェルもあるぜ」
「…なに?」 
ディアッカはにやりと笑う。
「そういう国らしいぜ。オーブは」
崇高な理念を掲げ、その反面ずるくてあざとい、食えない国だ。
ノイマンは思わず唸った。
「さて、行きますか、俺たちも。
しっかし、ひっさしぶりのサバイバルだね、こりゃ」
ディアッカはフラガの遺していったリュックを背負う。
「そんでもって、ほんとに生きてたとは、おっさんもしぶといねえ。
ああ、これ、あとで本人に言ってやんなきゃ、だね」
軽口を叩く質だということは知っているが、ディアッカがいつもよりさらに饒舌なことに、ノイマンは気づいた。
「そんでもって、マリューさんにはおめでとうだな。
無茶しすぎ、って言うべきなんだろうけど、それはおっさんの役目かな」
そんでもって、とディアッカは続けた。
「よかったね、あんたたちも」
穿った言葉を、ノイマンは無視して歩き出した。




地球軍の旧型の戦闘機が、その日諸外国の上空を飛んだことは、すべての公式記録から削除された。