Others 9
今度は手を離さない
どんなときもあなたの傍に
あんまり久し振りだったので、どちらも緊張した。
数えてみると、一緒にいた時間より離れていた時間のほうが長くて、そのことに気づいたふたりは笑い合った。
マリューはフラガの体に残る傷跡を、初めて目にした。
メンデルで受けた傷は、あとの傷に隠れてしまい、すっかりわからなくなってしまっていた。
顔とかね、まあ、差し障りのある部分は綺麗にしたんだけど。全身となると大掛かりだし。
痛まない?
普通に生活出来てるだろ?
それは痛まないという意味ではなかった。
マリューは指でそっと跡を撫でた。
大丈夫だよ。ちゃんとこういうことは出来るから。
馬鹿。
私のほうこそ、あちこち怪我のあとだらけ。
なかなか凄みがあって、魅力的だと。
じゃあ、消さなくていい?
いいよ。また手術とかしたら、体力が落ちる。
開け放した窓から、生温い空気が流れ込んでくる。
湿り気を帯びた南国の夜の気配。
こういうふうにすると、どこか痛いか?
…大丈夫よ。
背中に腕をまわして。…こう?
マリュー、かなり痩せてるよ。
…そう?
胸の感触が違う。
……。
いや、俺はどっちでもいいんだけどね。胸については。
…そうかしら。
…怒った?
マリューはフラガの頭を引き寄せ、唇を合わせた。
お喋りはここまでにしましょうよ。ムウ。
…そうだな。
金は際限なく必要だった。
営利を目的としない福祉事業は、アル・ダ・フラガの遺した金をあっという間に食い尽くし、資金の確保を図らなければ、活動を続けていけなかった。
軍人上がりの男が、一見際どい投資を次々と成功させていくのに、経済界は最初驚愕したが、彼がアル・ダ・フラガの息子であるとわかり納得した。
事業が軌道に乗ると、様々な集まりから声がかかるようになったが、ムウ・ラ・フラガは一切顔を出さず、公の仕事のすべてはマリュー・ラミアスがこなした。
彼らは富を得ようとしたわけではなかったが、事業の規模が大きくなるにつれ、扱う数字も大きくなった。
羨む人は大勢いたが、彼らが本当に望む生活を知る人は少なかった。
星空
目覚めたらひとりだった。
時計を見ると午前二時。
一度隣に入ってきたのは覚えているので、また出て行ったのだろう。
待っていようかと思ったが、心細くなってきて、ガウンを羽織ってベッドを出た。
何年住んでも他人の家のようにただ広いだけの屋敷の中で、ムウと私が使うのはほんの限られた空間だ。
思ったとおり、彼は中庭にいた。
石段に座り、星空を見上げている。
「冷えるよ」
隣に座ると、彼は前を向いたまま言った。
私は彼の肩に頭をもたせかける。
「なに見てるの?」
「空、かな」
肩に腕をまわしてくれたので、少し安心する。
そのまま私も空を見上げる。
少し前のことだ。辺境のプラントでラウ・ル・クルーゼの具体的な目撃情報があり、ムウはそれを確認しに行った。
あちこち捜したようだが、結局見つからず、存在した証拠もなかった。
どうやらこれまでと同じ噂に過ぎなかったらしい。
戻ってきたムウはとても疲れていた。
クルーゼに生きていてほしいのか、それとも死んでいてほしいのか、彼にもわからないみたいだ。
かなりたってからムウは口を開いた。
「きみは損したよな」
「どうして?」
「俺なんかと関わったからさ」
なんとなく言いたいことはわかるけれど、結構的が外れている。
この人ってずっとそうだ。
気を使いすぎて、肝心なところが抜け落ちる。「あなたは私を迎えに来てくれたじゃない」
もう昔のことだが思い出したのか、彼は少し肩の力を抜いて笑った。
「あれはびっくりしたよなあ。
マリューってば紛争地域の真っ只中にいるんだもんなあ」
「普通追いかけて来ないわよ」
「そっちこそ、普通いないよ、あんなところに。
さすがマリュー、と思ったよ」
私の戦争はあのとき終わった。
失われた者について忘れることはないが、流れ続けていた血は止まり、生きるために命を削らなくてもよくなった。
でも彼の戦争はまだ続いている。
羨む人もいるけれど、彼にとっては檻でしかないこんな屋敷に閉じ込められて、それでも財団を運営しているのは、開戦の一端に自分の存在が関わっていたという思いがあるからだ。
彼は家庭を持つことや、自分が幸せになることに微かな恐怖のようなものを感じているし、そういう気持ちでいることに、私に対して後ろめたさも感じている。
「ディアッカくんに会ったんですって?」
「ああ、うん。なんか言ってきた?」
「ちょっと考えさせてほしいって。ミリィとも話し合うからって。
…本気なの? ディアッカくんに財団を譲るって」
「冗談ではないつもりだけど。こないだ話しただろ?」
確かに聞いたが、あまり本気にしていなかった。
「まあ今すぐってわけじゃないよ。
それともマリューはずっと今の仕事を続けたい?」
「それは私もこのあいだ言ったでしょ。
財団はどんどん大きくなって、最初したかったのと違うことをしている気がするから、引き継いでくれる人がいるならお任せしたいけど…
ディアッカくんに押し付けるみたいになるのは悪いわ」
「無理にはさせないって」
「ほんとに駄目よ?」
「わかってますって」
でもディアッカくんがもし引き継いでくれたとして、そのあと私たちはどうするんだろう。
別にいいけど。
ムウの行くところには、私はついて行くから。
たとえ来るなと言われても。
「あいつやっぱり生きてないのかなあ」
ムウは私を引き寄せた。
「どうかしらね」
「生きてたら、また悪巧みしてそうだから、生きてないほうが世のためなんだろうな」
私は腕を伸ばして、彼の髪を撫でる。
彼の頭の位置が段々下がってきて、胸にもたれかかってきた。
「マリュー」
「はい」
「結婚しないとか子どもはいらないとか、全部俺の都合なんだけど」
突然の話題転換。
しかもふたりのあいだでは、ちょっとタブーみたいな事柄。
「はい」
彼のくせのある髪を指に巻きつける。
なにを言い出すんだろかと、少しどきどきした。
「俺の都合で、それ、やめていい?」
「え?」
まさか、別れようなんて言わないわよね?
などと考えていた私は、思わず手を止める。
「マリューと俺と子どもの三人で、家族をやろうよ」
淡い外灯の光に照らされる青い瞳が、私を見つめていた。
いやだわ。こんなに鼓動が速くなったら、彼の耳に聞こえてしまう。
「どうしたの、急に」
「ずっと考えてたんだけどね。
口にする勇気がなかなか」
「いきなり言われても」
出来ないかもしれないし。
わからないけど。
昔一回流産したことを、突然思い出した。
そのときの医者は、若いからまたできますよ、と言ってたような気がするけど、二度と誰も好きにならないと思っていた私は、適当にしか話を聞いていなかった。
それにもう若いとは言えないし。
そういえば私、ムウに流産したことを話したことがあったかしら?
言ってないわよね。
だって私、いまだに「彼」の詳しいことを話したことがないんですもの。
短いあいだにいろいろ考えていると、彼に伝わってしまった。
「なんかいっぱい考えてる?」
「…ええ。まあ」
「怒った?」
「…どうして怒るの」
「いや、勝手だからさ」
いまさら。
「あ、今、今更って思っただろ」
勘の良すぎる恋人っていうのもなんだかね。
「…思ってません」
ムウは体を起こして、正面から私を見据えた。
「もし子どもがなくてもさ、俺はマリューと結婚したい。してくれる?」
なんと答えていいものか、思い浮かばない。
ムウはじっと待っていたけれど、あ、と小さく呟いた。
「泣くなよ」
その言葉に反応して、指を頬にもっていくと濡れていた。
「泣くほど嫌?」
なに言ってるんだろう、この人。
でもここでちゃんと否定しておかないと、本気でそう思い込みかねないので、首を横に振る。
「んじゃ、泣くほど嬉しいわけ?」
一気に調子に乗る。
でもムウこそすごく嬉しそうな顔をしているから、許してあげる。
「そういうことにしてあげるわ」
私は掌で子どもみたいに涙を拭った。
→